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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      平泉寺の延暦寺末寺化
 加賀・越前・美濃三方の白山馬場(登拝口)のうち、越前馬場の中心は白山中宮の大野郡平泉寺である。鳥羽院政期に平泉寺を支配していたのは、園城寺の僧覚宗であった。彼は『寺門伝記補録』一三に「北越白山検校」とみえ、加賀白山宮も合わせ統轄していた可能性がある。
写真1 平泉寺坊院跡(勝山市平泉寺)

写真1 平泉寺坊院跡(勝山市平泉寺)

 覚宗は、鳥羽院および待賢門院の熊野詣の先達の功で律師に補され、京都の法勝寺・最勝寺・尊勝寺の別当職を務めたといわれるなど、院と密接なつながりのある人物である。彼の在職によって当時平泉寺が園城寺の末寺であったようにもみえるが、その支配は「年来、権僧正覚宗、院宣によってこれを領す」とあるように(資1 「台記」久安三年四月七日条)、彼個人が院の権力を背景に平泉寺を支配していたに過ぎない。
 ところが久安三年(一一四七)四月七日、延暦寺の僧綱・已講らが院の御所に群参し、園城寺長吏覚宗の平泉寺社務執行を停止して平泉寺を山門(延暦寺)の末寺にするよう訴える事件がおこる。その背景には「社領字平清水住僧ら、僧正の苛酷によって、みだりに寄文を注し、始めて延暦寺に寄与するところなり」とあるように、覚宗の峻厳な統制への住僧らの反発があった(資1 「本朝世紀」同年四月十三日条)。院は、覚宗没後に末寺化の宣下を行なうことを約束し(『台記』同年六月二十三日条)、仁平二年(一一五二)九月の彼の死とともに、平泉寺は延暦寺の末寺に入ったようである。
 



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