目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    一 ヤマト貴族のコシ観
      史実と説話
 すでに第二章の終わりまでに、今の福井県域にも、ヤマト朝廷の統一的法治体制つまり律(刑法)・令(行政法)という成文法にもとづく法治体制すなわち律令制が及んできたことを述べた。そこに至るまでには、考古学の多くのまた新しい資料は、日本列島の各地方はもとよりヤマト地方とのさまざまな交流を解明しており、また、オホド(袁本杼・男大迹)王が幼時を過ごした郷土の様子やそのヤマト朝廷入り(継体天皇)に新しい史実や側面が解明された。以下、ここでも第二章につづき「ヤマト」朝廷と表現する。教科書や諸書は「大和朝廷」とすることが多い。しかし、古代の近畿地方に起こった勢力は、大和・南山城・摂津・河内・和泉・紀ノ川下流域などを基盤にして形成された王国なので、その朝廷は大和盆地に制約されすぎないように「大和」という文字を使わずに、「ヤマト」朝廷と表現するわけである。
 しかし、この間にもなお残された問題がいくつかある。その主な理由は、コシやワカサも現地の人びと自身の手になる独自の史料(たとえば、イヅモにおける『出雲国風土記』やそこに語られる独自の国引き神話のような)を欠いているからである。だから、古い時代のコシの姿は、これまでの叙述でも、いろいろな配慮を加えながらやはり『古事記』・『日本書紀』(以下、『記』・『紀』)の記述のなかから探らねばならなかったのである。しかし、ことはそう簡単ではない。それらにみえる記述は、あくまでヤマト朝廷の貴族の立場からみた、あるいはかれらに必要なコシの姿であり印象であったからである。
 したがって、すでに扱ってきた時代に関してなおいくつかの問題をたてようとするときも、神話や説話と史実に関するものとを区別してかからねばならない、という配慮はさらに加えなければならない。その点で、どの時点の史料からほぼ史実とみられるかということについては、自ずから見方も分かれようが、当面、ヤマト朝廷の側からコシ地方の社会実態や政治状況を直接に把握しようという動きは、意外に遅かったことにまず留意したい。コシに律令制が押し及ぼされてくる以前では、それは、少なくとも次の二つの段階にあったと思われる。
1 その最初の時点は、六世紀の末葉である。すなわち、当時は蘇我馬子が主導してい
  たヤマト朝廷は、五八九年になって初めて、「阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越ら諸
  国の境を観しむ」(編五八)とあるように、このころまでは、越の諸国の国境さえ十分に
  把握していなかったのである。しかもこの処置は、約二〇年前から一〇数年前に起こ
  った一つの事件を契機にとられたものであった。つまり、その事件は次のように展開し
  た。五七〇年(欽明天皇三十一)のことであったという。コシに到着した高句麗使を、現
  地の道君と名のる豪族が「自分がこの国の国王だ」と称してその献上物を取り上げて
  しまった。ところが、このことを、すぐ隣の豪族江渟(江沼)臣裙代という者が、ヤマト王
  国の朝廷へ訴え出て暴露したのである。これを聞いてヤマト朝廷は、膳臣傾子を派遣
  してきて道君を責め、献上物も取り返し、帰って朝廷に報告した。そこで、朝廷はあら
  ためて鄭重な迎えの使を送ってきた結果、この高句麗使を、琵琶湖を経ていったんは
  南山城の相楽館に入れたあと、ようやく五七二年になって初めてヤマト朝廷へ迎え入
  れたのである。対高句麗外交の開始であった。
2 次の時点は、七世紀の中葉である。すなわち、六四二年(皇極天皇元)の秋、大和飛
  鳥にあったヤマト朝廷の使者(臨時官である「国司」)が、突如として越にもやってきて
  、百済寺を再建する事業に要する人夫の徴発を命じてきた。ヤマト朝廷からは初めて
  直接の大規模な徴発命令であったが、越の人びとも人夫として大和に向かいたち働い
  て、百済寺は再建された。のちの大官大寺(大安寺)である。次いで、六四五年(大化
  元)の秋には、再び平群臣某を長官とする「国司」の一行がやってきた。このたびの「国
  司」は、ヤマト朝廷では蘇我氏の本宗家が討滅されたのちに新政権が成立したことを
  告げた。さらに翌六四六年(大化二)秋にも、難波に宮廷を移した新政権から重ねて「
  国司」が派遣され、越の諸国造に対して多様な政治課題と課役を命じてきた。再度に
  わたるこれらの「国司」についてはすでにより詳しく述べたとおりである(第二章第四節
  )。国造はもとより、それぞれの国造をとおして新たな負担を強いられてきた越の人びと
  は、にわかにヤマト朝廷の重圧を身近に覚えざるをえない時代に入ったといえるであろ
  う。加えて、越は日本海域にあって東北への要点を占めていただけに、さらに固有の
  役割も担わなければならなくなった。六五八年(斉明天皇四)からの、「蝦夷」征討事業
  の軍役をめぐっての負担がそれであった。
 以上のような過程のなかで、コシ地方は、ヤマト朝廷の支配体制のなかに急速にまた強く組み込まれていった。そして、少なくとも六九二年(持統天皇六)には、コシから「越前国」が分立させられたらしい(編八八)。それは、浄御原令が諸司に広く配られてから三年目のことであった(なお、「越中国」や「越後国」は『紀』にはみえない)。
 右のような事情をおさえてみると、コシに関する『記』『紀』を中心とする記述は、六世紀後葉より以後は史実と認められる。逆にこれ以前の記事には説話的性格が強い。福井県の歴史を語る史料も、史実と説話をはっきり分けて考えていかねばならないだろう。



目次へ  前ページへ  次ページへ