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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    五 律令体制の整備
      「蝦夷」地への強制移住
 和銅二年三月、陸奥・越後二国の「蝦夷」が野心を抱き、良民を害するとの報が中央にもたらされた。巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に、佐伯宿石湯を征越後蝦夷将軍に任命し、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などから農民を徴発して「蝦夷」の鎮圧に着手した。おそらく越前・越中の民は、越後方面に徴発されたのであろう。このころ、出羽柵・が建設されている。同年七月、越前・越中・越後・佐渡の四国に対し、一〇〇艘の造船が命ぜられた(編一〇二)。越前などが「蝦夷」経略の基地とされていることは、以前とまったく変わらない。この遠征はある程度効を奏したとみえ、八月に将軍らは帰還した。九月には、征役五〇日以上の人びとに対し、復(調の免除か)一年が布告された(編一〇三)。和銅五年、出羽国が設置されたことはすでに記したが、『続日本紀』同七年十月丙辰条には、「勅して尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を割きて、出羽の柵戸に配す」とみえる。越前がこの「等」のなかに含まれていたかどうかは明らかではない。
 霊亀二年(七一六)九月、中納言巨勢万呂は、「出羽国を建てて数年になりますが、吏民は少なく、夷狄はまだ馴れません。その地は田野広大でかつ肥沃であります。近隣の諸国から民を移すのが良いと思います」と言上している。これによって、陸奥の置賜・最上二郡ならびに信濃・上野・越前・越後の四国の百姓、各百戸を出羽に移住させることになった(編一一六)。養老元年(七一七)二月の「信濃・上野・越前・越後の四国の百姓各一百戸を以て、出羽の柵戸に配す」(編一一七)という記事は、このことが実行されたことを示すものであろう。養老三年七月にも「東海・東山・北陸三道の民二百戸を遷して出羽柵に配す」(編一二三)とあり、この際にも越前の民が含まれていた可能性がある。
 以上のように、七世紀後半から八世紀初めにかけて、越についての記述はほとんど「蝦夷」に関する記事のみである。越前を含む北陸道は「蝦夷」対策の基地としてのみ認識されていたようで、それに対応する苛酷な施策がとられていたのである。



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