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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    五 律令体制の整備
      「越前」の成立
 朱鳥元年(六八六)、天武天皇は没し、皇后の野讃良皇女が即位して持統天皇となる。『紀』の持統天皇六年九月癸丑条に、「越前国司、白蛾を献れり」(編八八)とみえ、同月戊午条の詔に、「白蛾を角鹿郡の浦上の浜に獲たり。故、封を笥飯神に増すこと二十戸、前に通す」(編八九)とある。これが「越前国」の初見である。
写真36 気比神宮

写真36 気比神宮

 持統天皇六年以前に越が三分割され、越前国が成立していたとされている。しかしすでに示したように、同十年三月甲寅条の『紀』に「越の度嶋の蝦夷」(編九〇)とみえるので、同十年に至っても越の三分割は完成せず、同六年の「越前」の呼称はのちの追記とする説もある。だが越前のみが成立して、残りの越中・越後にあたる地域は領域が確定せず、たんに越とよばれた時期がしばらくあったのではないかとも考えられる。『続日本紀』文武天皇元年(六九七)十二月庚辰条には、「越後の蝦狄に物賜うこと、各差あり」とあるので、このころには越後も成立していることが明らかである。もちろん越中も成立していたであろう。
 『続日本紀』大宝二年(七〇二)三月甲申条に「越中国四郡を分けて越後国に属く」とあり、この四郡は前述のように、頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡とする説が有力であるから、それ以前の越後は、沼垂・磐船の二郡に、山形県の若干の部分(現在の庄内地方)を管轄するにすぎなかったであろう。しかし、和銅元年(七〇八)、この山形県内の部分に出羽郡が設置され、同五年には出羽郡が分立して出羽国となり、越後の領域はほぼ現在の新潟県と等しくなった。なお初期の越前の領域は、敦賀・丹生・足羽・大野・坂井・江沼・加賀・羽咋・能登・鳳至・珠洲の一一郡より成っていた。このうち敦賀・丹生・足羽・大野・坂井の五郡のみがのちの越前の領域となる。



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