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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    五 律令体制の整備
      壬申の乱の波及
 天智天皇の崩後、六七二年に大海人皇子(吉野方)と大友皇子(近江方)との間に内乱が勃発した。これを壬申の乱といい、美濃・近江・大和を主戦場とする古代最大の内乱であった。
 大海人皇子の舎人の一人に、稚桜部臣五百瀬がいる。稚桜部臣は、履中紀によれば、膳臣が稚桜部臣の称号を受けており、おそらくは履中天皇の名代であった稚桜部の統率にあたった稚桜部臣が、膳臣と擬制的同族関係を結んでいたのであろう。稚桜部臣五百瀬は、東山道の軍を起こすために派遣されている。持統天皇十年(六九六)、その死後壬申の乱の功績により直大壱(正四位上)を贈られ、またいつの時点かで功封八〇戸を受けている。なお稚狭王という人物がおり、大伴吹負が飛鳥古京の近くで兵を挙げたとき、飛鳥京の留守司の高坂王とともに、吉野方に帰順した。天武天皇七年(六七八)に没するときには三位となっている。名前からみて若狭に縁故のある人物であろう。また近江方の将軍であった羽田公矢国とその子大人は、近江方の戦況が不利なのをみて降伏した。大海人皇子は将軍とし、北方の越に向かわせた。羽田公矢国はおそらく近江の豪族であろう。矢国は越を平定後、迂回して近江の三尾城を攻略した。矢国は朱鳥元年(六八六)に没し、直大壱を追贈されている。
 壬申の乱は吉野方の勝利に終わり、大海人皇子は即位して天武天皇となる。天武天皇は重臣を登用せず、天皇親政による専制政治を行った。なお「天皇」の称や「日本」の国号も天武朝に始まったとする説が有力である。 『紀』の天武天皇四年二月癸未条に、大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張などの国に勅して「所部の百姓の能く歌う男女、及び侏儒伎人を選びて貢上せよ」(写真35)とある。これが国名としての「若狭」が史料にみえる最初である。すなわち若狭国は遅くとも天武天皇四年までに成立していたことになる。
写真35 『日本書紀』(編81)

写真35 『日本書紀』(編81)



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