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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    五 律令体制の整備
      天智朝とコシ
 孝徳天皇が白雉五年(六五四)に難波長柄豊碕宮で死ぬと、宝皇女(皇極天皇)が斉明天皇として重祚する。斉明天皇六年(六六〇)、百済の滅亡に際して、わが国は救援軍を送ることになるが、翌年、斉明天皇は九州の陣中に崩じて、皇太子中大兄皇子が遺志を継ぐ。天智天皇二年(六六三)、唐・新羅の連合軍に白村江で敗れ、朝鮮半島から全面的に撤退することになる。同六年、都が近江に遷される。唐・新羅をめぐる国際関係の緊張を考慮したためともいうが、それによって北陸が近く意識されるようになったことは事実であろう。
 天智天皇の宮人の一人、越の道君伊羅都売は、加賀の豪族道君の出身であろう。彼女は施基皇子を生んだ。施基皇子の子白壁王は、のちに光仁天皇となる。光仁天皇は和銅二年(七〇九)の生まれであるから、父の施基皇子はおそらく天智天皇の最晩年の出生であろう。したがって伊羅都売が召されたのも、近江遷都以後と推測される。
 天智天皇七年七月、高句麗の使者が越に来着した。高句麗は同年九月、唐のために滅ぼされているから、滅亡直前の遣使ということになる。遣使の目的は明らかではないが、到着したのはおそらく広義の越前であろう。



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