目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    四 迫る力役と貢納
      越の「蝦夷」
 『紀』には、「越の蝦夷」という記載がしばしばみえる。斉明天皇元年七月己卯条に「難波の朝にして、北北は越ぞ)の蝦夷九十九人、東東は陸奥ぞ)の蝦夷九十五人に饗たまう」(編七〇)とあり、また同五年三月甲午条に「甘梼丘の東の川上に、須弥山を造りて、陸奥と越の蝦夷に饗たまう」(編七三)とある。このことから、北(越)の「蝦夷」と、東(陸奥)の「蝦夷」が区別して用いられていることがわかる。
 また同五年三月是月条には、阿倍臣の遠征記事のあとに、「道奥と越との国司に位各二階、郡領と 主政とに各一階授く」(編七四)とあり、この越の国司が誰を指すのか明らかでないが、阿倍比羅夫を指すととれないこともない。天武天皇十一年(六八二)四月甲申条に、「越の蝦夷伊高岐那等、俘人七十戸を一郡とせんと請う。乃ち聴す」(編八二)とある。この時設置した一郡がどこであるかは明らかでない。さらに持統天皇三年(六八九)正月壬戌条に、「越の蝦夷沙門道信に、仏像一躯、潅頂幡・鍾・鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具賜う」(編八六)とあり、また同三年七月甲戌条に、「越の蝦夷八釣魚等に賜う。各差有り」(編八七)、また同十年三月甲寅条に、「越の度嶋の蝦夷伊奈理武志と、粛慎の志良守叡草に、錦袍袴・緋紺・斧等を賜う」(編九〇)とある。これらから、まさに越のなかに「蝦夷」がいたと考えざるをえない。それだけ越の範囲が広がっていたということになる。



目次へ  前ページへ  次ページへ