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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    四 迫る力役と貢納
      阿倍比羅夫の遠征
 『紀』によれば、越国守阿倍比羅夫は、斉明天皇四・五・六年の三か年にわたって「蝦夷」・粛慎を討った(編七二・七四・七五)。しかし、実際は一回ないし二回であったとの説もあり(村尾次郎『律令財政史の研究』・坂本太郎『古事記と日本書紀』著作集二、など)、また遠征の到達点、粛慎の性格についても多くの説があって、明らかにされてはいない。
 まず阿倍比羅夫の出自であるが、「阿倍引田臣比羅夫」の記載から、比羅夫の本拠地を敦賀の疋田と考える説もあったが、比羅夫はのちに筑紫大宰帥になっており、これは中央豪族でなくては任じられない。「越国守」とされるが、『紀』にみえる律令制以前の国司や国守はのちの令制下の国司や国守と違い、臨時に任命された派遣官であった。大規模な「蝦夷」経略を行う場合、有為な人材であれば、北陸道総督ともいうべき越国守に任命することはありえたと考える。比羅夫の業績は、そうした意味での越国守にふさわしい。注目すべき点は、斉明天皇六年の戦いにおいて、能登臣馬身竜が従軍して戦死していることである。おそらく能登の国造であった能登臣が、比羅夫の指揮のもとに従軍していることは、比羅夫が越の総督の地位にあった証左と考えられる。
 比羅夫は水軍一八〇ないし二〇〇艘を率いて北征したが、そのための造船はもとより、兵員や食糧の調達は莫大なものであったろう。その負担に堪えたのは、おそらく能登・加賀を含む広義の越前が主だったであろう。
 比羅夫の遠征軍は、斉明天皇四年に齶田・渟代を平定、渡嶋の「蝦夷」をも綏撫して帰還した。この年にまた、比羅夫は粛慎を討って帰還した。同五年には、飽田・渟代二郡の「蝦夷」のほか、津軽郡・膽振「蝦夷」を饗応し、進んで肉入篭に至り、後方羊蹄に郡領を置いて帰った。同六年にも、渡嶋の「蝦夷」を味方として、幣賂辨島の粛慎と戦った。能登臣が戦死したのはこの時である。齶田(飽田)・渟代は秋田・能代にあたり、津軽郡は津軽半島のあたりであろう。渡嶋・粛慎・幣賂辨島については明らかでない。



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