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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    四 迫る力役と貢納
      「蝦夷」対策の基地
 前述の皇極天皇元年の記事に続いて九月癸酉条に、「越の辺の蝦夷数千、内附く」(編六三)と記されている。これが越の「蝦夷」関係記事の初見で、このあと『紀』の越に関する記述は、ほとんど「蝦夷」関係の記載となっている。ここで「越の辺」というのは「越の辺境」の意味であろうが、具体的にはどの地域を指すのであろうか。五〜六世紀のコシは、四郡分割以前の越中を北限とする説がある(米沢康『越中古代史の研究』)。それに従えば、大宝二年(七〇二)越中より越後に移管された四郡は、頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡とされるから、コシはほぼ弥彦山と長岡市とを結ぶ線より南と考えられる。皇極天皇元年においても、「越の辺」はほぼこのあたりと考えてよいであろう。
図46 越の「蝦夷」関係の概要図

図46 越の「蝦夷」関係の概要図

 大化元年十二月戊午条として、「越国言さく、『海の畔に枯査、東に向きて移り去りぬ。沙の上に跡あり、耕田れる状の如し』と」(編六四)、また大化二年是歳条に、「越の国の鼠、昼夜相連り、東に向いて移り去く」(編六六)とある。前者は流木が東に移動していったとされ、後者は鼠の大群が東に移り去ったとされている。いずれも東の方向を指していることは、「蝦夷」に対する越の人びとの不安が表現されているものとされよう。大化四年是歳条に至って、「磐舟柵を治りて蝦夷に備う。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く」(編六七)と具体的な表現となり、負担が越の民に及んできたことが示される。その年の前大化三年是歳条には、「渟足柵を造りて、柵戸を置く」とあり、このときすでに「柵戸」を置くとあるから、越の民が移住させられているかもしれない。これらの柵は軍事的性格の強い官衙遺跡で、柵戸はそこにあって平時には耕作し、ことあれば戦闘に従事させられたようである。磐舟柵は新潟県の北境に近い村上市の岩船の明神山付近、渟足柵は新潟市沼垂付近と考えられる。
 なお「蝦夷」とは、主として東北地方の住民で、ヤマト朝廷の教化策の浸透していった地域の住人と風俗・習慣・言語などを若干異にした人びとを、朝廷が受けいれ始めた中華思想によって呼んだものである。



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