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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    四 迫る力役と貢納
      「大化改新」とコシ
 大化元年(六四五)秋の越地方には、再び「国司」が来た。平群臣某を長官とする一行で、この「国司」は、この年六月にクーデターによる蘇我本宗家の滅亡にともない新政権が成立したことを宣言し、軍事諸物資の徴発を課してきた。さらに、これに続いて翌年秋には、また「国司」の一行が来た。かれらは、前年までの「国司」とは顔ぶれも任務も明らかに違っていた。すなわち、かれらは、越の国造を通して、(1)一定の田の収取とその均等な班給、(2)税(男身の調)の徴収、(3)国ぐにの境を視察して文書か図に記して持ち帰ること(国名などはその時中央政府で定める)、(4)国ぐにに堤・溝をつくるべき所、墾田をすべき所を調べて均等に与えて造らせること、を命じられていた(『日本書紀』大化二年八月癸酉条)。日本列島の各地の政治は、いわゆる大化改新の方針を示したという「改新之詔」によって一変したといわれてきたが、実際はその「詔」の信憑性は疑われてきているし、むしろ、右の三次にわたるコシ(越)地方への「国司」派遣をみても、これも含めて蘇我本宗家滅亡のクーデター以前からの政治路線を受け継いだもので、孝徳天皇の新政はこのように展開しはじめたのであった(門脇禎二『「大化改新」史論』下)。
 斉明天皇四年(六五八)から、ヤマト朝廷が、コシの奥地から東北日本海域の「蝦夷」を討つべく北陸へ阿倍臣比羅夫を送ってきたのは、実はこういう経緯を承けてのことであった。以来コシ地方へ、ヤマト朝廷の支配がしだいに強く浸透してきたのである。



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