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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    一 ヤマト貴族のコシ観
      神話や説話にみるコシ
 『記』『紀』神話や説話にみえる北陸地方は、福井県も含めて、長い間、「コシ」としてヤマト政権の貴族たちに意識されていた。それが漢字をあてて高志・古志・越などと表現されるようになったのは、それが、『記』『紀』のもとになった「帝紀」「旧辞」の原型などに含まれていたとすれば、早くみて六世紀中ごろから、確実には七世紀末から八世紀初めごろからであった。以下にも当分、仮名でコシと表現する。それはともかく、ヤマトの古代貴族にコシと意識された北陸地方の諸地域は、史料の時期や性格によって現われ方が異なるので、コシといわれた領域の変化の段階づけを試みて、少なからぬ教示をうける論考もいくつかある(吉岡康暢「高志路の展開」『古代の日本』六)。
 そして、コシの語源は、近来に日本海の文化交流の研究が急速に進んだのにともない、中国大陸の江南地方の「越」から生じてきたのではないかとの説も生じている。しかし、地域の呼び名は、その文字表現よりも音で示される方が古かったとみるほうがよいと思う。だから従来からいわれるとおり、外から来る人には北陸道にせよ東山道からにせよ、困難な山越しに開けてくる世界であったところからコシとよばれたのであろう。もちろん、海路によることも多かったため国生み神話の「越洲」と水上に浮かぶ「洲」を付した表現とか、万葉歌にみる「高志の海」などの表現も生まれたのではないかといわれている(米沢康『越中古代史の研究』)。それにしても、コシが北陸地方の称として固定したのは、先に述べたように六四六年(大化二)から来た「国司」の任務とその報告によったものと思われる。したがって、コシの称は七世紀中葉以後に、ヤマト朝廷の側から定め呼びならわしてきたものであろう。
 以上に述べてきたことは、ヤマト貴族の神話や説話におけるコシ観にも、微妙に反映しているように思われる。たとえば、かれらが創り出した神話は、『記』『紀』の神代巻に語られる。そして、『紀』には本文の記述のほか、本文とは異なる諸書の記述が併記されているが、ことに国生み神話の部分には一〇の各書の説が付されている。しかし、「越洲」誕生のことは『紀』の本文と第一・六・八の各書にみえるだけである。逆にいえば、『記』と、『紀』の第二・三・四・五・七・九・十の各書にはまったくみえないのである。このようなことも、コシが長らく未知の、しかも未開の世界であるという意識のされ方と無縁ではないであろう。また、日本武尊による国内統一の説話においても、「唯、信濃国、越国のみ頗る未だ化に従わず」(編一八)とされていた。このようなコシについての認識は、『記』『紀』が編纂された八世紀に至っても、なお根強く生き続けていたとみなければなるまい。



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