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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    二 オオヒ(ビ)コ神の来征―四道将軍説話とコシ―
      オオヒコ神
 『記』では大毘古命、『紀』では大彦命が、いわゆる四道将軍の一人として、コシ(北陸)に平定にきたという話も、コシが未開で荒ぶる者たちが騒動し化に従わざる所とみられていた点では、まったく同様である。しかし、このオオビ(ヒ)コ神については若干の考察を加える必要があろう。埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣の銘に、オオヒコ(オオビコ)神を記す新史料(写真37)が加わったからである。少なくとも、これは、四道将軍の説話のみならず、コシの諸国造の祖神関係とも考えあわせて問題点を探る必要がある。
写真37 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文

写真37 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文
(国(文化庁)所蔵)

 すなわち、その鉄剣銘は次のように解読されている。
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比其児多加利足尼其児名弖己加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)
《釈文》辛亥年七月中記す。「ヲワケの臣、上つ祖の名オホヒコ、其の児タカリスクネ、其の児の名テヨカリワケ、其の児の名タカハシワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテヒ、其の児の名カサハヤ、其の児の名ヲワケの臣」、世々杖刀人の首として事へ奉り来たりて今にいたる。ワカタケル大王の寺シキの宮に在りし時、吾、天下を左治し、此の百練(錬)の利刀を作ら令めて吾が事へ奉れる根原を記す也。
 解読の結果に、若干の人名の読み以外はとくに異論はない。もちろん、稲荷山古墳の被葬者がこの鉄剣を入手した意義―その上番(一時、ヤマトへ出て仕えること)がヤマト朝廷の一方的な関東進出の勢いの結果を示すか、それとも後背のケヌ勢力と進出するヤマト勢力との間に介在する現地埼玉の首長たる被葬者が独自の勢力誇示に用いたものか―、銘文の製作者は渡来人らしいがそれを認めるか否か、辛亥年は四七一年か五三一年か、等々についてはなお説は分かれている。しかし、当面の問題であるオホヒコをどう理解するかについていえば、この「利刀」を作らせたヲワケ臣との間には、左のような系譜が語られている。
  (上祖)オホヒコ―(其児)タカリ足尼―(其児)テヨカリ獲居―(其児)タカハシ獲居―
  (其児)タサキ獲居―(其児)ハテヒ―(其児)カサハヤ―(其児)ヲワケ臣
 このオホヒコを、実在の人物とみる説もあるが、それは採らない。主な理由は、次のタカリ足尼の「足尼」という用い方は、後世の天武天皇十三年(六八四)に定められた八色の姓のそれではなく、祖先の集合霊としての始祖の名に付される古称である。だから、タカリ足尼の父とされる(上祖)オホヒコは、始祖に先立つ祖神的な存在とみられ、その名も意富(大・美称)比(彦・尊貴な男性)で特定の固有名詞ではない。ヲホド王(継体天皇)の曾祖父オホホド王(『上宮記』)と同類の名である。さらにオホヒコが、ヲワケ臣より「七世」前におかれているのは、初期仏像の造像銘などによくみられる「七世父母」の考え方に通じることも見過ごせない。
 要するに、五世紀末から六世紀初めのころ、各地の首長がそれぞれの祖先信仰にもとづき一族の上祖とした名の一つがオホヒコで、埼玉の首長もまた同様であった(岸俊男『遺跡遺物と古代史学』)。そして、ヤマトの朝廷ではオホヒコを上祖としたのは阿倍氏であり、その祖先系譜が天皇家のそれと結合されたとき、オホヒコは、孝元天皇の長子に位置づけられたのであった。『記』では大毘古命(母は内色許売命・穂積臣氏の祖の妹)、『紀』では大彦命(母は鬱色謎命)とされる。孝元天皇は、いわゆる欠史八代の一人で実在の人物とみられないのはもう常識だが、右の『記』『紀』系譜から推してこの鉄剣の所有者である稲荷山古墳の被葬者、すなわちオホヒコの後裔と称したヲワケ臣は、上番中に阿倍氏とか膳氏(ないし高橋氏)の祖先にゆかりを結んだ者ではないか、などと論じられることが多い。
 では、それにしても、このような新史料が加わったオホヒコ命を、後世に、コシ(北陸)の首長のうちにもその祖神とするものがあったのはなぜであろうか。



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