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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    二 オオヒ(ビ)コ神の来征―四道将軍説話とコシ―
      オオヒコ神と建ヌナカワ別
 コシ(北陸)の国造のうち、越国造・高志国造らは直接的に、若狭国造はいわば間接的に、オオヒコ命を祖神としていった。図47のような関係になる。その契機は、結論を先にいえば、やはり、オオヒコ命のコシへの来征説話、ヤマトの立場からいえば、いわゆる四道将軍派遣の説話がヤマト朝廷に服属した首長たちの間に定着していったこと、それと先に述べたコシに初めて視察にきたのが阿倍氏であったこととが結合した結果であると思われる。すなわち、四道将軍派遣の説話は、次のように記される。崇神天皇の時代であったというが、『記』『紀』によって、少し内容が違うことに留意したい。 
図47 北陸道国造の同祖関係

図47 北陸道国造の同祖関係

 『記』には「この御世に、大毘古命をば高志道に遣わし、其の子建沼河別命をば、東の方十二道に遣わして、其の麻都漏波奴人等を和平さしめたまいき」「故、大毘古命は、先の命の随に、高志国に罷り行きき。爾に東の方より遣はさえし建沼河別と、その父大毘古と共に、相津に往き遇いき。故、其地を相津と謂うなり。是を以ちて各遣わさえし国の政を和平して覆奏しき」(編七)とある。これに対し、『紀』には、「大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す(吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す)」(編八)、「群臣に詔して曰く、今反けりし者悉に誅に伏す。畿内には事無し。唯し海外の荒ぶる俗のみ騒動くこと未だ止まず。其れ四道将軍等、今急に発れ、とのたまう」(編九)、「四道将軍、戒夷を平けたる状を以て奏す」(編一〇)とある。
 つまり、オオヒコ命(と子の建ヌナカワ別)が派遣されてきたのは『紀』には「北陸」「東海」と、のちの律令制下の行政区画を示す表現をとっているが、『記』では「高志道」「東の方十二道」とより古い呼称で示している。
 この「道」というのは何か。たとえば、北陸についていえば、「道ノ口」という地名が、敦賀市に残り、ここから加賀に「道君」(『紀』欽明天皇三十一年五月条・天智天皇七年二月条など)がいたというのが連想される。「道口」―「道(君)」氏という関係を考えると、キビの場合も、上道(臣)氏、下道(臣)氏と上・下に分けてよばれたが、その前提にはこの両氏は元来「道」をおさえていた可能性がある。そして、『記』(孝霊天皇段)には、大吉備津日子命・若建吉備津日子命のキビツヒコ二神は針間(播磨)を「道ノ口」としてキビの征討に向かった、と記されていた。この問題に関しては、王都から東・西・南・北への交通路による「四方」を、直接には百済の五方五部の制に学んで「畿内」と対比的においたとする説(石母田正『日本の古代国家』)が想起される。この説は、大化改新詔の畿内を解釈するにあたって出されたもので、いわゆる東国ら「国司」が派遣されたとされる「東国」は実は「東方ノ八道」ともいわれ、これを右の「四方」の一ついわば東方とみている。
 この説を継承的に生かすなら、東方には信濃・三河または美濃・尾張以東に「東方八道」あるいは「東方十二道」が意識されていたことになるであろう。このようにみれば、東方の「道」は、ほかとはかなり異なるが、ヤマト朝廷とその王国は、これを含めて、北には古志(越)と丹波(今の丹波・丹後)、西には吉備を中心として、いずれも「道」ととらえていたことがわかる。要は、『記』『紀』にみえる右の「道」はたんに道路をさしたのではなく、また畿内七道制の道でもなく、律令制の地方行政区画が整えられる以前の一種の行政区画であったとみるべきである(門脇禎二『吉備の古代史』)。四道将軍派遣の説話は、まさにこのような「道」制が施行されていた段階に創出され、オホヒコ神は、その「高志道」の最初の平定者として語られ、それがしだいにコシの人びとの意識のうちにも定着していったものであろう。
 いま一つ留意したいのは、四道将軍の説話とコシとの関係では、主にオオヒコ神だけが問題にされるが、実はその子とされる建ヌナカワ別(建は美称、別は地方首長の姓で、のちヤマト王家ゆかりの者の姓とされた)も軽視できない。その名のヌナカワは、後述(第二節)する大国主命が妻問いしたというヌナカワ姫伝承(『記』神代巻)のヌナカワと同じであろう。ヌナカワは、瓊川、つまり玉を出す川という意味の普通名詞とみる説もあるが、この説話が、とくにコシの地にかかわることからすれば、世界的にも最上質の翡翠を産出する富山県境に近い新潟県糸魚川市青海町へ流れ出てくる姫川を意識した古名とみてよい。ヌナカワはなぜヤマトのオオヒコ神の子として伝説的将軍の名とされていたのだろうか。これは、姫川流域産の硬玉の勾玉が早く出雲大社の少し東の命主社の社域から出土していたり、右の大国主命の妻問い説話がつくられたように、姫川(ヌナカワ)下流域は、日本海交流の重要な一拠点として、早くから知られていたことによるのではないだろうか(門脇禎二「越と出雲―ヌナカワ姫伝承をめぐって―」『古代翡翠の道』)。ちなみに、神渟名川耳天皇(綏靖天皇)という和風諡号も、これらの史実や伝承的人物の説話とのかかわりで、日本海域とくにコシ地域を代表する「天皇」諡号として創出されたものであろう。コシにかかわる天皇は、実は大王オホド(継体天皇)に先立つ存在として、建ヌナカワ別とヌナカワ姫のヌナカワにかかわって神ヌナカワ耳天皇として形象化されていたことも見過ごせない。
 要は、オホヒコ命が四道将軍の一人としてコシの平定に来たという説話は、のちの阿倍氏のコシへの最初の視察やコシを拠点にして東北遠征に向かった史実をベースに、その祖神と子神の営みとして「道」制が施行されていた時期に述作されたもの、といえるであろう。そして、コシの首長でオオヒコ神を祖神とした者には、たんに阿倍氏(や膳氏)との直接のかかわりだけではなく、その子神の名とされたヌナカワの地名や、日本海交流を背景に生まれたヌナカワ姫への大国主命の妻問い伝承、そして神ヌナカワ耳天皇像の創出なども含めて、内実には意外に豊かなものが意識されていたように思われる。



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