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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     四 古墳からみた継体王権
      横山古墳群と三尾氏
 継体王権成立(五〇七年)後に北陸道域のなかで異例の活況をみせる横山古墳群は、継体天皇の妃を出した三尾氏の墳墓の地で、その地域は男大迹王(のちの継体天皇)が越前に滞在中の拠点の一つと推定されるにいたったのである。
 横山古墳群の眼下に御簾尾の大字名があるが、これはもとは「みお(三尾)」と呼称されていたが、いつの時代か「みつのお」に変化し、さらに「みすのお」に変化したとする考えからくるものである。そして、三尾の地名は、竹田川を下流から上ってくると御簾尾付近で、熊坂川・清滝川・竹田川の三つに分岐することから、このあたりの土地を「三尾」と呼称するようになったものであり、この土地より興った有力な氏族が土地名を冠して「三尾氏」と称したとするのである。そして、三尾の背後にある横山古墳群を三尾氏の墳墓の地とみるのである。
 また、天平五年(七三三)「山背国愛宕郡計帳」(文五)に「越前国坂井郡水尾郷」が、『延喜式』兵部省に越前国の駅名として「三尾」があり、三尾の位置が坂井郡の北部と考えられることからも(第四章第三節)、三尾氏の墳墓の地は横山古墳群以外に考えられない。
 さらに、『日本書紀』に、「次の妃三尾角折君の妹を稚子媛と曰う、大郎皇子と出雲皇女とを生めり。(中略)次に三尾君堅の女を倭媛と曰う。二の男、二の女を生めり。其の一を大娘子皇女と曰す。其二を椀子皇子と曰す。是三国公の先なり。其の三を耳皇子と曰す。其の四を赤姫皇女と曰す」とあり、のちの律令時代、坂井郡内に三国氏が広く分布することや同郡の大領として活躍する人物もいることなどから、少なくとも三国公の先祖である椀子皇子の祖父三尾君堅は越前の三尾に本拠をおいたと考えられる。
 横山古墳群の古墳時代後期の前方後円墳が南端と北端とに二極化してまとまって所在し、鎌谷窯跡(金津町)の埴輪や須恵器が両方に供給されていることを考えると、継体天皇の最初の妃かとみられる稚子媛の出た三尾角折君の一族もその近くに本拠をおいた蓋然性は高いのである。
 以上のことから、横山古墳群の数多い古墳時代後期の前方後円墳の被葬者を、三尾氏と男大迹王との関係のなかでとらえることができるのである。



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