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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     四 古墳からみた継体王権
      横山古墳群と継体王権
 横山古墳群(金津町・丸岡町)は、福井平野の北東隅に位置し、竹田川と清滝川に挟まれた南北約三キロメートル、東西約一キロメートルに横たわる丘陵性山地の山上および山麓に立地する古墳群である(図28)。そして、現在は前方後円墳一九基、円墳一五六基、方墳六三基からなる県内最大級の古墳群であり、とくに越前の前方後円墳の約四分の一が集中し注目されている古墳群である。
図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布

図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布

 横山古墳群の首長墳の系譜については、墳丘形態や出土品などからおおまかに編年すると図29のように考えられている。すなわち、その首長墳の系譜は、A・B・C・Dの四系統が考えられ、Aは五世紀前後から六世紀中ごろまで継続するが、とくに六世紀に栄えた。Bは四世紀後半から五世紀中ごろまで継続するが、五世紀後半からはDに移行して六世紀後半まで継続し、とくに六世紀代に栄えた。Cは四世紀後半ごろ前方後円墳が一基のみ築かれたが、すぐに円墳に変わり、AやBの従的位置におかれるようになったようである。ともあれ、横山古墳群は古墳時代前期末より栄えていたが、後期になって一段と隆盛をみることになり精彩を放ったといえよう。なお、横山古墳群の西北西約二キロメートルに位置する菅野古墳群(金津町)のタコ山古墳も、その墳丘形態のあり方より六世紀代の前方後円墳と考えられるなど、当該期に著しく前方後円墳が減少する北陸道域のみならず全国的な傾向のなかにあって、まったく特異な現象である。
図29 横山・菅野古墳群の首長系譜

図29 横山・菅野古墳群の首長系譜

 そこで、このような動向を多くの研究者が『日本書紀』『上宮記』の継体天皇関係記事と直接結びつけて考えた。その代表的な考えは、横山古墳群が多数の前方後円墳や円墳からなること、前方後円墳の数が若狭の前方後円墳の総数より多いこと、足羽山古墳群や松岡古墳群で出土している石棺がみられないことなどを指摘したうえで、とくに前方後円墳の数が多いことから県内最大の古墳群とした。しかも、前方後円墳が、古墳時代前・中・後各時期の形式を含んでいることから歴代の首長墳とした。さらに、『日本書紀』によれば継体天皇の母振媛は「三国の坂中井」の「高向」の出身であり、三国の故地にある古墳群のなかで、とくに抜きん出て異彩のある横山古墳群を三国国造墳墓の地とした(斎藤優「横山古墳群」『若越郷土研究』一)。そののち、古墳時代前期〜中期の大型前方後円墳が松岡・丸岡古墳群にみられることから、第一次三国国造墳墓の地が松岡・丸岡古墳群であり、第二次三国国造墳墓の地を横山古墳群と修正した。また、越前の石棺が古墳時代前〜中期にはみられるものの、後期になると影をひそめる事象や、前〜中期に比べて後期にすぐれた古墳の少ない事象とを合わせて、継体天皇の即位と表裏する現象と考えた(斎藤優『改訂松岡古墳群』)。越前で長い間、古墳の分布調査や発掘調査を手がけてきた研究者の考えだけに、地元では現在もその考えを一部改めつつも同調する者が多い。
 しかし、そののち、越前の前方後円(方)墳や石棺・埴輪などについての研究が一層深められ、また全国的に古墳時代の研究が著しく進展した結果、新たな見解が開けてきた。



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