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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
    三 王者の棺―石棺―にみる地域色
      石棺にみる階層差
 すでにみたように、越前で石棺が発見されるのは、福井平野の北部の一部の古墳群からであり、その分布は時期によって異なっている。ここで注目すべき点は、前期から後期までの各期の刳抜式石棺が発見されているのは、松岡地域のみという事実である。松岡地域の大型前方後円墳は、隣接する丸岡地域の大型前方後円墳とともに、越前の各地域首長を支配した越前の広域首長墳であることはすでに述べたとおりである。それは、各古墳の遺骸埋葬施設が石棺で、墳丘規模・立地高度、葺石・埴輪・段築といった外部施設や副葬品などの点で、他地域の古墳と著しく隔絶していることによる。松岡・丸岡の両地域の大型前方後円墳以外の各地域から発見される刳抜式石棺は、すべて円墳からであり、ほかの前方後円墳(地域首長墳)からは一個も発見されていない。ここに、支配階級のなかにおける明確な上下関係を読みとることができる。
 いいかえるなら、石棺の使用にあたっては、九頭竜川水系を支配した広域首長がきわめて重要な役割(政治的な決定権など)を有していたことがうかがえるのである。また、石棺の使用を容認された一部首長は広域首長ときわめて密接な関係を有していたと考えられる。
 石棺材は、現在の石工たちの肉眼的観察によれば、椀貸山一号墳と神奈備山古墳の石屋形を除くと、現在も広く利用されている福井市足羽山産の笏谷石と考えてよいようである。これらの石で、石棺を造る工人は広域首長の管掌下にあったことはいうまでもあるまい。広域首長が、足羽山の石棺工房で造らせた身・蓋合わせて二トンばかりの石棺を筏に乗せて足羽川を下り、九頭竜川を上って、松岡・丸岡の河岸から再び修羅に乗せて、標高一六〇〜二七三メートルの山頂に築かれた広域首長墳まで運び上げさせたことは、広域首長の勢威を説明するのに十分であろう。松岡の吉野堺から二本松山古墳に至る今も残る石棺の運搬道は、尾根が削平されて平らになっているので現在もたどることができる。二本松山古墳に至るのに、一番緩やかであるこの道を選んだ当時の人びとの眼識には感心させられる。
 刳抜式石棺を有する古墳と組合式箱形石棺を有する古墳とを比較すると、後者は規模の小さい古墳であることがわかる。しかし、石屋形は六世紀前半から中葉にかけての有力な地域首長墳に採用されている。椀貸山一号墳・神奈備山古墳ともに横穴式石室の内部構造を有するが、前者は自然石積石室であり、後者は切石積石室である。
 ともあれ、不朽の重厚な石棺を二百数十年にわたって、北陸道域のなかで唯一使用しえた越前の広域首長と越前の諸地域勢力とのつながりや越前と他地方との交流は、石棺を通してみることもできるのである。



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