目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      律令国家の道
 中央集権体制をとる律令国家にとって「道」は、全国の土地と人民を掌握するためにはきわめて重要な交通・通信施設であった。七道といわれる当時の幹線道路は、地方支配のため中央から国司がやってくる道、地方の様子を調査するための巡察使などがやってくる道、中央の命令が通る道、地方行政の報告書が四度使などによって中央へもたらされる道、地方からの庸・調などの租税が人や馬の背にゆられて中央へ運ばれる道、地方の役民などの労働力が徴発される道、軍団の移動を迅速にする道などとして必要であった。人や物を速やかに移動しなければならない律令政府にとって、中央と地方を結ぶ幹線道路は、最短距離でしかも交通の阻害とならないところを選ばねばならない。
 しかし不完全ながらも、律令国家以前より住民の生活上の必要から自然発生的に作られた道があった。山・川などの自然に強く規制された山間地域では、谷間の道や鞍部の峠道、尾根づたいの道が生活道路として利用された。平野であっても、川やその水量その他の自然条件、集落の分布や産業などの社会的条件によって直線道路をつけることが困難なところもあって、山麓の道を選ばざるをえない場合もあった。畿内政権の支配の手もこれらの生活道から及んだ。それと同時に大和地方の文化がもたらされたのであった。律令国家の象徴ともいうべき国府や郡家の所在地も、多分に古い道に左右されたものと考えられる。長い間の生活経験によってできた道路を無視するわけにはいかなかった。律令国家はこの道を整備拡幅し、可能な限り直線道路に修正して、「官道」として踏襲せざるをえなかったものと考えられる。
 一般に官道は大化の改新をさかのぼる時代から整備されつつあったと考えられるが、大化年間はもちろん、それから数十年あとまで北陸地方は「越」(古志)時代であって、天武天皇十四年(六八五)に各道へ巡察使の派遣があったが、北陸道だけみられなかった。「北陸道」の存在は持統期を経なければならない。官道としての七道は、律令政府にとっての重要さから大路・中路・小路に分けられ、大路は都と大宰府を結ぶ山陽道、中路は東国や陸奥を結ぶ東海・東山道、小路は北陸・山陰・南海・西海道であった。



目次へ  前ページへ  次ページへ