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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      駅馬の制
 中央集権国家である唐の律令制を採り入れたわが国は、中央と地方(国府)を結ぶ連絡手段として、主要幹線道路に駅馬を常備させ駅馬の制を採った。この制度は『日本書紀』には大化二年(六四六)の詔に示されているが、実際に機能した時期については天智朝期と持統朝期の二説がある。『日本書紀』には天武天皇元年におこった壬申の乱のとき、大海人皇子方が倭京留守司に「駅鈴」を乞うたが許されなかったとか、伊賀国では「隠駅家」「伊賀駅家」を焼くとか、近江朝より「駅使」が馳せてきたなどの記事がみられる。乱後には西国の国司の「官鑰」「駅鈴」「伝印(伝符)」を進上させているから、天智朝ころには畿内・山陽道では駅馬の制は機能していたのかもしれない。
 駅馬の制の規定では、諸国の公道三〇里(約一六キロメートル)間隔で駅を置くが、地勢が険しかったり、水や飼料の草がないなど自然条件の悪い所では、かならずしも三〇里間隔でなくてもよいとしている。たとえば宝亀七年(七七六)十月、美濃国菅田駅と飛騨国大野郡伴有駅との間に下留駅を置いた。菅田駅・伴有駅間は七四里も離れていたが、そのあたりの地勢が険しく不便であったからである。逆に山陽道は大路で、中・小路より多くの馬を常備していたが、なお駅馬の利用度はほかの官道に比してはるかに高いため、駅間の距離を短くして駅の設定が行われている。すなわちその距離の判然としているものを測定すると、およそ一〇キロメートルごとに設置されて、規定の約六割の間隔であり、他道よりかなり駅間が短くなっている(『広島県史』通史編一)。
 また、各駅に備える馬は、大路で二〇匹、中路で一〇匹、小路では五匹と定められていた。しかし、国司は各駅の利用頻度を考えて、備える馬の数を変えることができた。東山道(中路)の一国である近江国の駅馬の馬数を『延喜式』で調べると、勢多三〇疋、岡田・甲賀各二〇疋、篠原・清水・鳥篭・横川各一五疋、穴太五疋、和爾・三尾各七疋、鞆結九疋であり、その必要によって馬数が異なっていたことがわかる。
 駅馬は「はゆま」と読み「早馬」のことで、主として中央から地方へ、地方から中央への、急を要する命令や報告が伝達されるのに馬の脚力が用いられた。人や文書は馬を乗り継いで継走するか、一気に目的地まで駆け抜けたのであった。緊急を要するときは一日一〇駅(約一六〇キロメートル)以上を、それほどでない場合でも八駅(約一三〇キロメートル)進むよう規定している。飛駅(馳駅)という急使を走らせるときは、大瑞や軍機(軍事上の機密)、災害異変や疫病の発生があったとき、境外での不穏な動きがあったとき、謀叛以上の企てがあるとき、外国からの帰還者があったとき、盗賊を現地で逮捕できなかったとき、死罪決定ののち冤罪とわかったとき、国司が急に欠員となって国務に支障を生じたとき、誤って烽火をあげたときなどの場合であった。天平宝字二年(七五八)、政府は越前・越中・佐渡・出雲・石見・伊予六か国に飛駅鈴を一口ずつ与えている。日本海沿岸の国が多く、北陸・山陰道から中央への飛駅が必要な事態が予想される国際情勢であったから、通信網の充実を考慮してのことであろう。天平宝字三年八月六日大宰帥を香椎廟に遣わして、新羅を討つことを告げる。同年九月十九日新羅征討のため、三年以内に船五〇〇艘を北陸・山陰・山陽・南海道の諸国に造らせるなど、藤原仲麻呂の新羅征討計画と関連があるように考えられる。
 普通の駅使としては幣帛使(神祇官)・御贄使(宮内省)などの公使や朝集使、のちに正税帳使・大帳使も加えられた。駅馬を乗用するには天皇から駅鈴を賜わることが必要で、それだけ駅馬の使用には慎重であったのである。駅鈴には使用できる駅馬の数が剋数で示されていた。諸国にも駅鈴が配備されたが、三関国四口、大上国三口、中下国二口であったから若狭国は二口、三関国の一つ越前国は四口であった。越前国四口の内訳は守は五剋、介・大椽・少椽・大目・少目はともに三剋、史生二剋であったから、五剋一口、三剋一口、二剋一口、それに関国として一口計四口であった。
 駅制の管理は兵部省が行い、運営は国司の責任によってなされた。駅の管理運営にあたっては多くの人手と財源が必要であった。そこで政府は駅周辺の農家のいくらかを駅戸に指定し、駅長・駅子の負担と駅田の耕作と駅馬の飼養を義務づけた。全国には「駅家」という郷名がかなりみられるが、これは駅戸集落とかかわりが深いと考えられる。元和古活字本の『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)によると、駅家郷数は東海道三〇、東山道二四、北陸道二、山陰道一、山陽道一七、南海道一、西海道〇であった。この数字からもうかがえるように大路・中路に多い。これは馬数が多く、駅田も大路四町歩、中路三町歩と、小路の二町歩に比べ広かったから、駅戸の数および郷のなかで駅戸の占める割合が多かったため、郷名を「駅家」としたのではないかと考えられる。
 駅田から収穫した駅稲(天平十一年から正税に組み入れる)は、駅使の食料や駅馬の買替料として支出された。『延喜式』主税上「駅馬直法」(駅馬の公定価格)によると、若狭は上馬三〇〇束、中馬二五〇束、下馬二〇〇束、越前は上馬四〇〇束、中馬三五〇束、下馬三〇〇束と決められていた。当時の稲一束は現在の枡で米二升であったので、馬一疋稲三〇〇束とは米六石分に相当したことになる。駅馬の飼養は、中々戸以上の駅戸に一疋ずつ飼養させた。駅財政の収支、駅家の管理、駅子の割当てなどの駅務を執るのは駅長で、駅長は駅戸のなかから富裕で才幹のある者が選ばれ、調・庸・雑徭の課役は免除された。駅子は駅戸の課丁(正丁・老丁・少丁)のすべてがあてられ、庸・雑徭は免除されたが、駅馬を曳いて駅使を次の駅まで送行すること、駅使とその同行人に事故があったときの文書の逓送、駅馬の飼養などの義務があって、一般農民の課役より厳しかったといわれる。



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