鎮火儀礼といえば思い起こされるのが、石川県羽咋市寺家遺跡である。それは気多神社に近い砂丘の裾にある大規模な祭祀遺跡である。同遺跡の「祭祀地区」と命名された地点での祭祀の特徴は焚火儀礼であり、砂丘の裾の窪地に石組みの炉や土坑を設け、多彩な品々を供献し、大規模に火を焚き、焼土を外から運びこんだ山土で覆うという行為が繰り返し行われた。そしてそれは火結神を生んだため石隠れた伊佐奈美命が、水神・匏・川菜・埴山姫を新たに生み、荒ぶる神である火結神を鎮めようとしたという、『延喜式』祝詞にみえる鎮火祭の祝詞を彷彿とさせるものである。この寺家遺跡の祭祀は、渤海使の来着とかかわり、彼らのもたらす疫神を鎮め追却させようとしたものと考えられている(浅香年木「古代の能登国気多神社とその縁起」『寺家遺跡発掘調査報告』二・「古代の北陸道における韓神信仰」『日本海文化』六)。松原遺跡も松原客館が置かれ、渤海使と関係深いところである。そこでも火を焚く儀礼が行われたとすれば、寺家遺跡と同様に渤海からの疫神を防ごうとした国家的な祭儀であった可能性が高いと考えらえよう。
このように県内各地では祭祀遺構・遺物の発見例が次第に増加している。それらは古代人の信仰生活の跡であり、その様子を直接我々に物語ってくれるものとして、きわめて貴重なものである。そのなかには村落を中心とした祭祀、官衙によって行われた祭祀、国家的な祭祀とさまざまな段階の祭祀が含まれていると考えられるのである。 |