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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      松原遺跡
 これまでの村落単位の祭祀とは異なった様相をみせるのが、敦賀市の松原遺跡である。櫛川町別宮神社前の浜堤には、径三〇〜一〇〇センチメートルの浅い皿状に掘られた遺構が一四か所あり、その中および周辺からは須恵器の高台付碗・碗・皿・長頚壷・平瓶・短頚壷など、径四三ミリメートルの素文鏡、銅鈴、銅銭(和同開珎・神功開宝・隆平永宝)、鉄製刀子・剣・釘のほか、赤褐色の焼けた粘土塊が出土している。これらの遺跡・遺物については、祭祀儀礼的色彩が濃く、金属(鉄製品)・埴土(粘土塊)・水(須恵器などの容器)の存在から鎮火儀礼が行われたと考えられている(『資料編』一三)。
図66 松原遺跡出土遺物の実測図

図66 松原遺跡出土遺物の実測図

 鎮火儀礼といえば思い起こされるのが、石川県羽咋市寺家遺跡である。それは気多神社に近い砂丘の裾にある大規模な祭祀遺跡である。同遺跡の「祭祀地区」と命名された地点での祭祀の特徴は焚火儀礼であり、砂丘の裾の窪地に石組みの炉や土坑を設け、多彩な品々を供献し、大規模に火を焚き、焼土を外から運びこんだ山土で覆うという行為が繰り返し行われた。そしてそれは火結神を生んだため石隠れた伊佐奈美命が、水神・匏・川菜・埴山姫を新たに生み、荒ぶる神である火結神を鎮めようとしたという、『延喜式』祝詞にみえる鎮火祭の祝詞を彷彿とさせるものである。この寺家遺跡の祭祀は、渤海使の来着とかかわり、彼らのもたらす疫神を鎮め追却させようとしたものと考えられている(浅香年木「古代の能登国気多神社とその縁起」『寺家遺跡発掘調査報告』二・「古代の北陸道における韓神信仰」『日本海文化』六)。松原遺跡も松原客館が置かれ、渤海使と関係深いところである。そこでも火を焚く儀礼が行われたとすれば、寺家遺跡と同様に渤海からの疫神を防ごうとした国家的な祭儀であった可能性が高いと考えらえよう。
 このように県内各地では祭祀遺構・遺物の発見例が次第に増加している。それらは古代人の信仰生活の跡であり、その様子を直接我々に物語ってくれるものとして、きわめて貴重なものである。そのなかには村落を中心とした祭祀、官衙によって行われた祭祀、国家的な祭祀とさまざまな段階の祭祀が含まれていると考えられるのである。



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