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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      祭祀遺跡
 次に発掘調査によって、県内各地で律令制下の祭祀にかかわる遺跡・遺物が見つかっているので、それを紹介してみよう。
 三方郡三方町田名の水田地帯に位置する田名遺跡村山地区では、九世紀後半とそれより古く八世紀代の可能性もある斎串が合わせて七点、それに九世紀後半ごろの銅鈴、それ以降の時期の舟形木製品各一点が出土した。舟形は全長七・二センチメートル、幅二・三センチメートルという小型のもので、船首と船尾を削って作り出し、船槽は彫りくぼめ、船底を平らにしたものである。なおこの遺跡では、手捏土器・土師器・須恵器などの土器や石製模造品である臼玉、ガラス質小玉などがまとまって出土した古墳時代の祭祀跡が二か所で検出され、また弥生時代の鳥形木製品も二点出土するなど、祭祀の場としての歴史には長いものがある(三方町教委『田名遺跡』)。

角谷遺跡出土の人形
角谷遺跡出土の人形
 
上莇生田遺跡出土の斎串
上莇生田遺跡出土の斎串
写真66 祭祀関係木製品

 斎串は短冊状の薄い板の上部を圭頭に作り、下端を尖らせたもので、長さ一四センチメートル前後、幅二センチメートルのものが三点と大きさにまとまりがみられるほか、長さ二〇センチメートル、幅四センチメートル弱のもの、それに長さ二四・五センチメートル以上、幅四・五センチメートルという大型のものもある。斎串は一定の空間を作り出すように地面に刺しめぐらし、そのなかを祭りを行うのにふさわしい清浄な空間とする結界の役割を果たすものである。斎串によって外部の悪気が祭りの空間に侵入することを阻止しようとしたのである。また舟形は鬼や疫神を乗せて祓い流すためのものと考えられている(水野正好「招福・除災―その考古学―」『国立歴史民俗博物館研究報告』七)。鈴は今も巫女が手に持ち神楽を舞うように、その音色によって神の霊を招き邪悪を払うものである。二項でふれたように、田名遺跡は三方郡衙ではないが、近辺にそれと関連した施設が存在したとみられることからすれば、これらの祭祀遺物は郡段階で施行された祭祀に関連するものである可能性があろう。
 なお、弥生時代に属する鳥形であるが、鳥はたとえば倭建命の霊が白鳥に化したといわれるように(『古事記』景行天皇段)、この世と他界をつなぐ役を果たすものであり、先の舟形と同じく鬼神や厄神を乗せてこの世から追い払うためのものだったのであろう(金子裕之編『律令期祭祀遺物集成』)。
 田名遺跡から西へ約一・五キロメートル離れた、三方町向笠の高瀬川右岸の水田面に広がる角谷遺跡では、律令期の掘立柱建物・割り矢板列遺構が検出されているが、同時期の遺物のなかには、祭祀関係の木製品が含まれている。すなわち斎串・人形(写真66左)・舟形・陽物形である(三方町教委『角谷遺跡・仏浦遺跡・江端遺跡・牛屋遺跡』)。斎串は四点あるが、内二点は奈良時代、二点は平安時代に属する。各時代一点ずつが完形のまま出土したが、奈良時代のものは長さ二五センチメートル、幅一センチメートル、平安時代のものは長さ約一七センチメートル、幅二・五センチメートルの大きさである。
 人形は奈良時代のもので二点出土したが、いずれも棒材を用いた立体的な人形である。一点は現存長二〇・七センチメートルの棒材に頭部と胴部を彫り出し、脚部は細く尖らせている。もう一点は長さ二一・六センチメートルの棒材の両端に頭部を作り、目・鼻・口を彫って表現し、頭には冠を削り出している。おそらく官人の姿を表わしたものであろう。また一方の首のやや下のあたりには、側面に貫通する穴があり、操り人形のように腕が付けられていたと考えられる。このように立体的に作られた人形は藤原宮・平城宮・平安京などで出土例はあるが、人形は薄板状の物が一般的であること、また立体人形が官人を表現したとみられることは、この遺跡の性格を考えるうえで興味深いものである。人形の意味については後述する。
 舟形は平安時代以降に属するもので、長さ約二三センチメートル、幅七・六センチメートル、厚さ三センチメートルを測り、角を削って舟首と舟尾を作り出し、舟槽を浅く彫りくぼめ、舟底はやや湾曲する。陽物形は平安時代のもので、現存長約一四センチメートルである。陽物形はたとえば、祟りをなして田の苗を枯らしてしまった御歳神を祭るのに、溝の口に牛宍とともに男茎形を置くという方法が『古語拾遺』にみえるように、祭祀に用いられたものである。このほか、弥生時代の刀形・鳥形木製品も出土している。
 福井市上莇生田町・上河北町に広がる上莇生田遺跡では、集落の近くを流れる河道や溝などから人形・斎串(写真66右)・刀形が出土している(『福井市史』資料編一)。人形は長さ三二センチメートル、幅四センチメートルの短冊状の薄い板を加工し、頭部・胴・脚を表現している。人形は人間の形代として用い、それに息を吹きかけ、体を撫でることにより、自分の罪・穢をそれに移し、祓い流すものであった。今日でも「水に流す」という言葉があるように、この祓は水辺で行われることが多く、人形が水に流されることにより、罪・穢は流れ去り消えるものと考えられた。この遺跡もそれにふさわしいものである。そしてその際、人形を確実に罪・穢の流れ行く他界(根国)に送るために、田名遺跡で出土したような舟形が用いられたと考えられる。また刀形は、祓の場の罪悪・悪気を断つものとして、人形に罪・穢を移す際に用いられた可能性がある(金子裕之「平城京と祭場」『国立歴史民俗博物館研究報告』七)。
 同市和田中町の和田防町遺跡では、集落近辺の溝のなかから土製馬形(土馬)が見つかっている。これは九世紀初頭に属するもので、鞍を乗せた胴体部分の長さ約一三センチメートルだけが残り、頭部や脚は破損している(『福井市史』資料編一)。土馬も各地の祭祀遺跡で出土しており、水霊信仰とかかわり水神への捧げ物との見方が強いが、出土品はいずれも脚の一部や尾を欠くなど、完形品はほとんどない。そこで、馬は疫病・災厄をもたらす行疫神の乗物であることから(『大日本国法華経験記』下一二八)、土馬の脚などを折ることにより、行疫神の行動を妨げようとしたものであるとの考えも出されている(水野正好「馬・馬・馬」『奈良大学文学部文化財学科文化財学報』二)。
 これに関連して興味深いのは、土馬が見つかったのと同じ溝から、馬の骨が出土していることである。これは八世紀後半のものである。実は先にふれた上莇生田遺跡でも、溝から七世紀前半に属する馬の歯・木製鞍・木製壷鐙が出土しているのである。土馬が九世紀と最も時期の下るものであることからすると、もとは本物の馬を用い、それを殺すことにより祭祀を行っていたが、後に土馬で代用するようになったとも考えられよう(『福井市史』資料編一)。
 ところで、馬を殺すということで思い出されるのは、第三章第三節でみた漢神信仰である。越前で流行した漢神信仰では、牛を殺すことが問題視されたが、そこでもふれたように牛馬を殺して諸社の神を祀り、雨を祈るという大陸風の祭祀の仕方があった。また漢神は祟り・疫病をもたらす神、まさに行疫神でもあった。越前で牛だけでなく、馬を殺して神を祀る風習があったとしても不思議ではあるまい。しかし馬は貴重なものであり、殺牛が禁じられるなかで、馬についても土馬を用いるように変化したのであろう。なお土馬は金津町細呂木遺跡、春江町中庄遺跡、福井市三本木町三本木遺跡、武生市池上町池ノ上遺跡からも出土している(『国立歴史民俗博物館研究報告』七 附篇)。
 次に、武生市二階堂町の下ノ宮遺跡では、和同開珎八枚・万年通宝一枚・神功開宝一六枚の三種類の奈良時代の銅銭、計二五枚を内蔵した須恵器の平瓶・長頚壷・短頚壷などが出土した。発見時に長頚壷・短頚壷・平瓶は約四〇センチメートルの間隔で並び、銅銭三枚は土中に、二二枚は平瓶と長頚壷の中にあったという。これは八〜十世紀にかけて三度以上の、須恵器の容器に銅銭を入れ埋めることに意味のある祭祀が営まれた跡とみられている。とりわけ平瓶には、「桑田□(郷カ)」という墨書が二つ並んで施されており注目される。この遺跡は天王川によって形成された河岸段丘直下の南斜面にあり、南に広がる水田面より約二メートル高い地点に位置する。この祭祀の内容は明らかではないが、墨書の示す村の五穀豊饒(春時祭田)や広く泰平吉祥を願うもの、氏族神あるいは祖霊に対する祭祀、ないしは地鎮などの可能性が指摘されている(久保智康「皇朝銭を埋納する祭祀の一類型」『福井県立博物館紀要』一)。
 丹生郡清水町明寺山遺跡では、丘陵部の西側斜面三か所をL字状にカットして段状の平担面を造りだし、そこに石を配置した遺構が検出された。そこでは焼土の痕跡から火を焚いたことがわかり、また平坦面に意識的に置いたとみられる大量の須恵器の蓋・坏・皿・椀・壷・盤・甕、土師器の坏・甕、施釉陶器が出土した。遺物の大半は須恵器であり、土師器は一割程度である。その時期は八世紀末から九世紀代に及ぶとみられる。須恵器の坏には、燈心痕を残すものがかなりあり、燈明皿として使われていたことがわかる。すなわちここでは、長方形の祭壇に石を配し、燈明をあげ、一部で火を焚き、土器を奉献するという祭儀が、ほぼ同じ場所で何度か行われたのである。この明寺山丘陵直下の鐘島遺跡は、大規模な掘立柱の遺構が検出され、七世紀から十一世紀に及ぶ集落跡あるいは寺跡と推定されており、この祭祀を行ったのは鐘島遺跡にいた人びとであったと考えられる。この祭祀の性格については、鐘島・明寺山の地名や須恵器に施された「寺」の墨書から、仏教関連のものとの見方もできるが、類例に乏しいことから神の祭にかかわるものである可能性が高いとされている(清水町教委『福井県清水町大森明寺山遺跡調査概要』)。
 集落近くの丘陵部斜面に土器を埋納する点で、先の下ノ宮遺跡と共通点があり興味深い。ここでは煮炊きを行ったらしく、村人全員が参加し村の社神を祀りその年の豊作を祈り、飲食をともにしたという、春時祭田との関連を指摘する見解が出されている点も下ノ宮遺跡と共通する(清水町教委『杉谷古墳群』)。春時祭田については、『令集解』儀制令春時祭田条に引く大宝令の注釈書「古記」から、その復元研究が行われているが、その実際の祭りの場が明らかになれば、古代の村落の信仰生活を明らかにするうえできわめて意義が大きい。この二つの遺跡が春時祭田にかかわるものかどうかは、まだ断定できないが注目される遺跡である。
 



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