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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      「大唐内典録」の書写
 東京の根津美術館に所蔵されている「大唐内典録巻第十」は、重要文化財に指定されている。「大唐内典録」は、麟徳元(六六四)年に唐の道宣が編纂した仏典の目録である。縦二六・一センチメートル、長さ二一九五・五センチメートル、四一紙の穀紙に書かれたこの経典は、越前を舞台に書写が実現したものである。すなわちその奥書(写真65)によると、これは天平勝宝七歳七月二十三日に越前国医師六人部東人が、四恩(父母の恩・衆生の恩・国王の恩・仏法僧=三宝の恩)に報いるため、智識などを率い書写した一切経律論であるという。今は巻第十が残るのみであるが、この写経事業を実際に担当したのは、「写左京八条二坊三尾浄麿、一校丹生郡秦嶋主、二校国大寺僧闡光、装匠左京八条四坊直代東人」と名を連ねた人びとであった。
写真65 「大唐内典録巻第十」(文33)

写真65 「大唐内典録巻第十」(文33)

 国医師は各国一人の定員で置かれた医師であり、当国の人を起用するものであったが、もし適任者がいなければ傍国から採用することになっていた。しかし実際にはなかなか適任者がいなくて、式部省が派遣することが多かったようである。六人部東人は天平勝宝六年閏十月「検米使解」(公五)などにも国医師としてみえる人物である。彼の出身がどこであるかは不明だが、越前国丹生郡水成村の人六人部浄成(寺四四)、同郡従者里六人部安万呂(『平城宮発掘調査出土木簡概報』二五、木補四五)の存在が知られることからすれば、越前それも丹生郡の出身であった可能性は高いようである(佐久間竜『日本古代僧伝の研究』)。
 この写経は彼の築き上げた人間関係のなかで実現したものである。すなわち写経に参加した人達は、大きく京の人と越前の人に分けられる。そして書写と装が京の人によって行われたことは、写経が京で行われたことを物語る。彼がもし中央派遣の国医師であれば、京の人と人間関係があったことは自然のことである。また越前出身の人であったとしても、国医師は国衙の一員として、部内巡行や班田など国司と同様の職務を行うことがあったから、京とのつながりができたと考えられよう。
 しかし、京の人の一人で書写を担当した三尾浄麿は、三尾氏が越前にいたことが知られるから(第二章第二節)、もともと越前に縁の深い人物であった可能性が高い。また校正を担当した秦嶋主が、六人部浄成や六人部安万呂と同じ丹生郡の人であることも興味深い。やはり校正に携わった僧闡光のいた国大寺の所在は不明だが、越前にあったことも十分に考えられよう。
 このようにみてくると、この「大唐内典録」の書写は、六人部東人という人物が越前と京で築き上げた人間関係によって実現したものであることがよくわかる。これは一般農民レベルではなく、より有力な人びとの間における仏教信仰、およびそれを通じた人的関係を物語る貴重な資料である。もっとも「智識等を率い」「眷属及び智識等」の語がみえるから、彼ら以外の名前の現われない多くの人びとが、費用を負担するという形で写経事業に参加したことは、十分考えられるところであり、その場合はそのなかに一般農民も含まれていたことであろう。



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