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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      架橋の現実的意味
 その際、加賀郡司が智識料稲の運漕に関与していることも注目される。公私の協力で久米田橋は造られたわけである。このように国郡衙が協力したのは、宗教的なことよりも現実的な理由からであろう。すなわち国内の交通路の整備が、民間の信仰をいわば利用することで実現できたのである。律令国家にとって交通路の整備は、税の貢進や支配の貫徹などにとって必要不可欠なものであった。したがって久米田橋の架橋は、律令国家にとっても好都合なものだったのである。
 一方、智識となった人びとにとっても架橋は宗教的意義だけでなく、現実的意味をももっていたことを忘れてはならないだろう。当時の農民は先にみた貢納の旅などの場合を除き、基本的に自分の住む郡の範囲内にその行動範囲は限られていた。口分田は郡内で与えられるのが原則であったから、日常的に郡の外に出る必要はほとんどなかった。もし郡内で口分田が不足するような場合は、国内の他郡に班給されることになっていたから、特別なことがない限り、最大でも彼らの行動範囲は国のなかに限定されていた。そしてそれに対応するように、国の範囲を越えて不法に移動を行うと、浮浪とか逃亡とよばれ取締まりの対象になったのである。
 久米田橋は九頭竜川という大河川にかかる橋であり、同川の北は坂井郡、南は足羽郡であった。したがって一般農民にとって久米田橋は、日常的にはあまり必要ない橋であったろう。しかし豪族や有力農民層は、交易や墾田開発などのため、郡の範囲を越えて往来することがあった。彼らの行動範囲は一般農民よりかなり広いものであった。そして、そのための交通施設に対する要求は強いものがあった。したがって同橋を現実に欲していた階層は、彼らであったといえよう。



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