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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      智識による架橋
 智識とは寺院や仏像の造営など、仏教興隆に協力する人あるいはその行為を意味する。したがって智識料稲は、久米田橋の造営のために寄進された稲のことであり、かつそれが仏教的意味をもっていたことがわかる。
 ここで思い起こされるのが行基である。奈良時代前半に活躍した彼は、当初民間で布教し政府の弾圧を受けたこともあったが、その活動は「また親から弟子などを率い、諸の要害の処において、橋を造り陂を築く。聞見の及ぶ所咸く来て功を加う。不日にして成る」(『続日本紀』天平勝宝元年二月丁酉条)といわれている。具体的に彼がかけた橋としては、泉大橋・山崎橋・高瀬大橋、それに長柄・中河・堀江の六か所が『行基年譜』に引く「天平十三年記」にみえる。ここには智識という言葉は出てこないが、行基が率いたのはまさに智識であった。彼を信仰する多数の豪族や民衆の協力を得て、行基は多くの架橋事業を遂行することができたのであった。
 こうした僧侶に率いられた智識による架橋は、ほかにも多くの例が知られている。たとえば宇治川にかかる宇治橋は、橋寺放生院に建つ「宇治橋断碑」によると大化二年に道登が造ったといい、また『続日本紀』によると元興寺僧道昭がかけたという(文武天皇四年三月己未条)。ここで注目したいのは前者の碑文にみえる「此橋を構立し、人畜を済度す」という一節である。ここでは橋をかけることが、人畜を済度することに通じるとされている。済度とは文字どおり本来は川を渡るという意味であるが、仏や菩薩が世人を苦界の此岸から、彼岸の悟りの世界に救い渡すことをも意味する仏教用語である。
 すなわち、現実の世界で橋をかけ川の両岸を結ぶことが、死後の世界で彼岸へと救われることに通じると理解されたのである。善根を積んで済度を願う人びとを、智識に組織し架橋事業へと参加させるにあたり、彼岸に渡ることと現実の川を渡ることとが重ね合わされたのである。 このような思想によって越前の人びとは、具体的な名前は不明であるが、教化を行う僧侶に率いられ、久米田橋の造営に参加したことであろう。そしてまた実際の工事に参加はせずとも、財政的に協力する人びともいた。そうして集められた稲が智識料稲である。先にもみたように、ほぼ久米田橋の位置に重なる鳴鹿橋の交通路上の重要性からすると、加賀郡のみならず越前国内のかなり広範な地域から、智識料稲が送られた可能性が高いと思われ、この橋をめぐる信仰の広がりがうかがわれよう。



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