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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      久米田橋智識料稲
写真64 鳴鹿橋付近

写真64 鳴鹿橋付近

 次に古代の人びとの信仰生活の面を考えてみよう。天平勝宝(七五五)七歳九月「越前国雑物収納帳」(公六)のなかの加賀郡司解は、「年料舂米事」の報告であるが、実際にはそれ以外の封戸租米・地子米・公廨米・売田直米などを含め「都合米五千五十一石七斗二升」とする。ここで注目したいのは、その下に小さい字で「之中従坂井郡久米田椅智識料稲五千五百束加」と書かれていることである。この部分はいささか意味が通じにくい。しかしおそらく、坂井郡から要請があった久米田橋の智識料稲を、加賀郡から移出を予定されていた年料舂米などに加えて積み出したという意味であろう(浅香年木『古代地域史の研究』)。年料舂米は都に運ばれるものである。また公廨米などは国衙へと運ばれたことであろう。したがって五〇〇〇石余の米のなかには、都まで行くものと丹生郡にあった国衙留まりのものとがあったことになる。そしてその米は船で運ぼうとしたことが文書からわかる。したがって前者は敦賀津まで船で行き、後者はその途中の三国湊で荷が下ろされたのであろう。智識料稲は坂井郡の久米田橋のためのものである。したがってそれは年料舂米などに便乗し、三国湊まで運ばれたと考えられる。
 ところで、久米田橋はどこにあったのであろうか。九頭竜川が山間部を抜け福井平野に流れ出た地点に、今は鳴鹿橋がかかっている。そこから少し西の九頭竜川北岸に、丸岡町上久米田・下久米田の地名が残る。ここは坂井郡に属し、久米田橋の所在郡と合致する。かつ他郡からも智識料稲を集めていることは、かなり大規模な橋であることをうかがわせ、九頭竜川はそれにふさわしい。したがってこの上久米田・下久米田こそ久米田橋にかかわる地名と考えて間違いない。久米田橋は現在の鳴鹿橋のあたりにあったのである。
 その鳴鹿のあたりは、古代において一つの重要な交通路上にあった。すなわち阿味駅にも比定される武生市味真野町から、三里山の東を通り戸ノ口坂を越え福井市西大味町に至る。そして篠尾町あたりで足羽川を渡り、小畑峠から松岡町に出、九頭竜川を渡って鳴鹿から丸岡町に通じる。そうすれば朝津・足羽・三尾駅と通じる駅路につながるのである(第三節)。しかもこの道沿いには式内社も多く、越前国内におけるその重要性がうかがえるのである。そうであるとすれば、これより北にあたる加賀郡のみならず、この坂井郡はもとより、南の足羽郡や丹生郡などからも智識料稲が出された可能性は大きいのではなかろうか。



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