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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      漁業活動を物語る遺跡・遺物
 ところで、漁業活動の痕跡は遺跡・遺物からもうかがうことができる。青郷の例ではないが、いくつかの遺跡を紹介してみよう。大飯町吉見浜遺跡は奈良・平安時代の製塩遺跡であるが、それとともに豊富な漁業関係遺物が出土している。それは鉄製のヤス・銛の先であり、多量の土錘である。前者は長さ九・七センチメートルで片側に逆鈎がついたヤスや、現存長一六・五センチメートルの銛であり、平安時代に属するとみられる。それに対し後者は完形品と破片を合わせて二九一点出土している。土師器と須恵器の両方あり、形態的には管状細長型・管状中長型・円形・管状太長型・円筒型に分かれる。これらは船岡・吉見浜式製塩土器に伴い、奈良・平安時代に使用されたとみられている。また小浜市阿納の阿納塩浜遺跡からも製塩土器のほか、円筒形の土錘、紡錘形の石錘が出土している。これらは漁網に付ける錘であり、刺網などに用いられたものと考えられ、沿岸漁業が製塩活動とともに重要な生業であったことを物語っている。
田名遺跡出土の管状土錘
田名遺跡出土の管状土錘
江袴遺跡出土の櫂
江袴遺跡出土の櫂

島津遺跡出土の大型石錘
島津遺跡出土の大型石錘
写真63 漁業関係遺物

 三方郡三方町には漁業関係遺物(写真63)を出土した遺跡が数多くある。すなわち田名にある田名遺跡からは、奈良・平安時代の土錘が五四〇点以上出土した。さらに同遺跡からは弥生時代・古墳時代の櫂が三点出土している。田名の人びとが船に乗って、漁業を行っていたことを示すものであるが、それは律令制下においても同様であったろう。また古墳時代の浜UA式・同UB式製塩土器も出土したが、田名は海岸に面していないこと、ほかに祭祀遺物も多く出土していることから、これらは祭祀に伴う遺物ないしは焼塩土器として持ち込まれた可能性が考えられている(三方町教委『田名遺跡』)。同町向笠に所在する角谷遺跡でも、奈良・平安時代に属する土錘二〇点余が出土した(同『角谷遺跡・仏浦遺跡・江端遺跡・牛屋遺跡』)。常神にある島津遺跡では、淡水産のヤマトシジミを主体としたマガキ・サザエなどの貝類の包含層があり、そこに住んだ人びとの漁業活動の成果をみることができるが、ほかに製塩土器や長さ二二センチメートルの大型石錘が出土している。またやや時代はさかのぼるが、世久見の食見遺跡でも古墳時代後期以降の長さ一五・八センチメートルの大型石錘が、古墳時代から平安時代までの製塩土器とともに出土し、北前川・鳥浜の江跨川流域に位置する江跨遺跡では、昭和六十二年の調査で弥生時代後期末以降とみられる櫂が二四点見つかっている。また浜UB式製塩土器を主体とする製塩遺跡である同町小川の小川遺跡でも、現存長一二・八センチメートルの大型石錘が一点出土している(以上、三方町立郷土資料館『湖の漁具展』、三方町教委『江跨遺跡』)。大型石錘はいずれも海岸部に位置する遺跡から見つかっており、海での漁に用いた網に付けたものであろう。
 このような三方の人びとの漁業活動の場は、若狭湾に限らなかった。島津遺跡の淡水産の貝の出土がそのことを端的に物語っているが、田名や江跨遺跡の場合、その主な舞台は三方湖や水月湖などの湖水であったろうし、さらには遺跡の近くを流れる川も忘れてはならないであろう。
 同じように河川での漁業活動を示す遺跡が、福井市和田中町に広がる和田防町遺跡である。そこでは八世紀前半代を中心とする遺物を出土した溝から、一〇〇点以上の土錘と二次焼成痕を残す製塩土器が、後述する祭祀遺物である土馬や墨書土器などとともに出土している。製塩土器は産地から塩が土器に入れられたまま運ばれてきて、焼き直されたことを示すものである。土錘は遺跡近くの足羽川での漁に用いられたのであろう。さらに同遺跡では、船材の一部が井戸枠として再利用されている遺構が見つかった。これがどのような規模の船であったか、あるいは漁船であったのかどうかはまだわからないが、足羽川を航行した船であろう(『福井市史』資料編一)。
 同じく、福井市の上莇生田町・上河北町に所在する上莇生田遺跡では、旧河道から、これも後述する祭祀遺物の人形・斎串などとともに、船の櫂・垢取り(船のなかに入った水をくみ出す道具)・網の枠、それに土錘が出土している。土錘は古墳時代のものと奈良時代以降のものとがある。これも足羽川や川幅三五メートルを測る旧河道で、漁業活動が行われたことを示すものであろう(『福井市史』資料編一)。
 さらに、足羽川以上に九頭竜川は重要な漁業活動の場であったろう。そこには近年に至るまで、漁で生計を立てている人がいた。調査結果によれば、下流域では地引網・流し網による鱒・鮭漁、中流域では釣り・捲き網・サンギリ・エバ(筌)による鮎漁、エバ・アラレガコ網によるアラレガコ漁、アド(網戸)による鱒・鮭漁、上流域ではイワナ・アマゴなどの渓流魚漁が昭和二十年代まで行われていたという(福井県立博物館『九頭竜川の漁撈』)。こうした多様な漁業活動は古代においても、農業活動と併存して行われていたと思われ、古代の人びとの生産活動を復元するにあたっては、十分に考慮に入れなければならないと考えられる。
 なお、敦賀市葉原の葉原窯跡群は、九世紀に属する須恵器を焼いた三基の登り窯であるが、坏・高坏・壷とともに管状土錘も出土し、ここで製造した土錘を漁村地帯に供給していたことがわかる(『敦賀市史』通史編上)。漁業と窯業の分業関係・交流を示す遺跡として興味深いものである。



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