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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      漁村のくらし
 次に舞台を若狭国遠敷(のちの大飯)郡青郷(里)にとり、漁村の生活を考えてみよう。青郷(里)が東は現在の高浜町青のあたりから、西は大浦半島の神野・日引・田井・河辺にまで広がっていたことは第一節でみたところである。青郷は海岸部や河川沿いに位置するいくつかの小集落から成り立っていたのである。そしてそれらの小集落では、漁業とともに農業も営んでいたとみられる。そのことは青郷から多くの海産物を貢進したことを物語る木簡があるとともに、青郷川辺里の庸米木簡も見つかっていることから明らかである。また時代は下るが、たとえば近世の日引村は、慶長七年(一六〇二)六月十六日付「若狭国浦々漁師船等取調帳」(桑村文書『資料編』九)には「日引 〆拾艘、二かわ、いわしアミ」とあり、漁業を営んでいた一方、「正保郷帳」によれば、村高は田方六八石余、畑方二五石余となっており、農業も行っていたことがわかる。こうした半農半漁という生活は、時代を越えて続いてきたのである。
写真62 木簡(左:木補26、右:木補28)

写真62 木簡(左:木補26、右:木補28)

 さて、それでは青郷でどのような海産物を産していたかを木簡によってみてみよう(郷里制の里名、あるいは五戸の名まで記載されているものは、それを示す)。まず若狭で一般的な調の塩がある(木三五・木補三五)。次に中男作物として海藻(わかめ)を出している(木補二二―小野里、木補四一)。そして最も多いのが贄として海産物を出しているもので、その品目は多比鮓(木四三)、鯛鮓(木補二六―氷曳五戸)、伊和志(鰯)(木六五)、加麻須((木補一五)、鯛(木補二八―田結五戸)、鯛(木補二九―田結五戸)、貽貝(木六四)、海細螺(木補二三―小野里)、貽貝富也交作(木補二七―氷曳五戸)、貽貝富也并作(木補三六)の多数にのぼる。このうち鯛(木補二九)は鯛の脱字である可能性が高い。
 まず鯛鮓であるが、当時の鮓(鮨)は現在の鮓とは製法が異なる。現在の鮓は早ずしといい、ご飯に酢を加え酸味を付けるものであるが、これは江戸時代以来のものであって、古代の鮓は馴れ(熟れ)鮓である。『令集解』賦役令の調絹条に引く大宝令の注釈書である「古記」は、鮨について「音義」という書を引用して解説している。すなわち「音義に曰く、蜀の人、魚を取り鱗を去らず、腸を破りて塩を以て飯酒と合わせ喫わす、碑を其の上に重くし、熟せば之を食う、名づけて鮨肉とす」というものである。中国の蜀の人の習慣として、魚の鱗を取らず、臓物は取り去り塩を付け、酒と飯とを合わせたものを中に詰め、重しをして発酵すれば食べたという。これは乳酸発酵させたもので、飯は食べずに魚のみを食べる一種の保存食であった。
 現在でも作られている馴れ鮓には琵琶湖の鮒鮓がある。その製法は産卵期の五、六月に獲った子持ちの雌鮒の鱗と内臓を取り去り、腹のなかに塩を詰め、桶に鮒と塩を入れて重しをする。そして七月土用のころにある程度塩抜きしてから、鮓桶に飯と鮒を交互に重ねて重しをのせ、一日おいてから塩水ないしは水を張り、乳酸発酵を待つ。こうすれば数か月で骨まで柔らかくなり、食べられるようになるというものである(石毛直道「東アジア・東南アジアのナレズシ」『国立民族学博物館研究報告』一一―三)。古代においても基本的には同じような作り方であったろう。青郷では鯛の鮓の木簡しかないが、遠敷郡木津郷では貽貝の鮓(木補二〇)、三方郡では鰒の鮓(木補三三)を出している。
 次に鰯・・鯛のがあるが、とは干物のことである。また貽貝富也の交作と并作とは同じものであろう。これについては『延喜式』主計上に、若狭からの調品目に貽貝保夜交鮨というのがあることが参考になる。おそらく木簡にみえる交作・并作は交鮨のことであろう。そうであるならこれは、貽貝と海鞘とを混ぜこんで作った鮨ということになろう。
 このように、青郷は塩・海藻のほか種々の魚貝を捕り、それを干物にしたり鮓にしたりして、貢進していたことがわかる。とりわけ贄は青郷に特徴的な税であったが、その品目は調の塩の場合のように固定されず、実にさまざまなものを出していた。これは魚介類の場合は、その漁獲量は自然条件に左右される割合が高いため、特定の品目に限定することができず、季節季節に応じて捕れたものを貢進させていたためであろう。したがって、贄の品目の多様性は、青郷の人びとの実際の漁業生活の成果を反映しているとみられる。
 青郷において製塩を行っていたことは、調塩木簡のほか製塩遺跡が見つかっていることから知ることができる。青郷域に含まれる日引遺跡・神野浦遺跡、それにおそらく郷域内と思われる音海遺跡・小黒飯遺跡は、船岡式製塩土器が出土した奈良・平安時代の製塩遺跡である。これらの遺跡で調塩は生産されたことであろう。その場合、製塩活動は夏の暑さを利用するのが有効である。したがって、それは夏季を中心とした季節的な活動であったろう。そしてその他の時期には、漁業活動が盛んに展開したと考えられる。その成果の一端を先にみた多種多様な贄木簡によって知ることができるわけであるが、塩は贄の鮨やなどの保存食を作るのに大いに役立ったのである。



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