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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      農村のくらし
 当時の村は、農業中心の農村と漁業中心の漁村の二つに大きく分けることができる。そして広大な福井平野が広がる越前国では前者が、リアス式海岸が続く若狭国では後者が、それぞれ大きな割合を占めていたであろう。ただし、後者の漁村については、地域による相違はあろうが、なんらかのかたちで農業にも従事するのが一般的であって、漁業だけで生計を営んでいた村は少なかったものと思われる。
 まずはじめに、当時における農村の人びとの一年のくらしを稲作を中心にみていくことにしよう。さて、人びとにとっては農作業の開始が一年の始まりであったが、農作業を始めるにあたって行われるのが予祝行事の春時祭田である。春時祭田は、儀制令春時祭田条に「春時祭田の日には郷の老者を集めて一たび郷飲酒礼を行へ」とあるように、村内の男女がことごとく集まり、出挙利稲などであらかじめ用意した酒などで飲食をともにするものであった。春時祭田は村内総出で神にその年の豊作を祈る祭祀であり、一年の稲作の始まりを告げる重要な行事であった。天平神護二年、越前国足羽郡大領生江臣東人が、神社の春の祭礼で酔い伏したため呼び出しに応じることができなかったと、東大寺に対して釈明を行っているが(写真61)、こうしたことは在地にとって春の祭礼がいかに重要であったかを示すものであろう。
写真61 「越前国足羽郡生江東人解」

写真61 「越前国足羽郡生江東人解」

 春には出挙の貸付がなされた。出挙はその貸付主体により私出挙と公出挙に区別されるが、後者は春と夏の二度にわたってなされていたことが当時の史料から知られる。春の出挙は種稲用に使用されており、そのため良質の稲が必要とされた。天平宝字五年の「越前国使等解」(寺一一)に、天候不順で収穫した稲の実入りがよくないため、出挙稲として不適当であるとされているのはこうした事情によるものであろう。このほか春の出挙は、荒田打ち(田植えの前に田を耕起する作業)の労働力確保のためにも用いられていた可能性がある。出挙稲の貸付は二月の中旬から三月の中旬にかけてなされ、『万葉集』一九によれば、越中国では国守の大伴家持が三月に公出挙のため国内を巡行している。
 出挙が終わると播種が始まる。種稲の播種は、それを本田に直接行うもの(直播き農法)と苗代に行うもの(田植え農法)との二通りの方法があった。両者の関係については、直播き農法が当初一般的であったが、その後田植え農法に移行したとする説と、弥生時代にすでに田植え農法が存在していたとする説とがあるが、奈良時代には田植え農法が一般化していたと考えられる。
 ところで、当時農民には口分田が支給されたが、他人の土地を借りて耕作を行う賃租も広汎に行われていた。そして、賃租は個人間だけでなく、荘園や国家の土地もその多くは賃租に出されていたので、いくつもの大規模な荘園があった越前国では、賃租を行う農民が多数存在したことになる。賃租は一年のみの契約で行われ、毎年春に新たに借地人が決められた。そのため、天平宝字二年の「越前国坂井郡司解」(寺一二)に「今営田の貴賎、元春三箇月の間、苗子を下し共に競作するを常となす」とあるように、春になると農民は先を競って播種し、田地を借りようとしたようである(第五章第一節)。この史料は東大寺に進上された品遅(治)部君(公)広耳の墾田一〇〇町についてのものであるが、それを基礎に成立した鯖田国富荘でも毎年春になると同じような光景がみられたことであろう。
 夏になると田植えが始まる。田植えは早いところで四月、一般には五月に行われた。田植えには多くの人手が必要であり、こうした労働力を確保するため、「田夫」に魚酒を食わせる習慣があった(『類聚三代格』延暦九年四月十六日太政官符)。夏の出挙はこうした魚酒を入手するためになされたとみられる。田植えが終わると除草作業が行われる。稲作以外でも夏になると麦刈・養蚕などの作業があり、夏は農民にとって多忙な季節であった。
 秋は収穫の時である。『令集解』田令田租条には「九月を早となし、十一月を晩となす」とあり、九月から十一月にかけてが収穫の時期であるというのが法家の解釈である。しかし、実際はこの期間におさまるとは限らなかった。滋賀県高島町の鴨遺跡から出土した木簡には、ある荘園の日ごとの収穫量が記載されているが、それによれば、その荘園では九月の中旬から十月の初旬まで引き続いて収穫作業が行われていたことがわかる。また、天平宝字五年八月二十七日付「賀茂馬養啓」(寺二九)にみえる「越特子」は、稲の品種名であるともみられている。もし、そうであるならそれは、越の地方で栽培されていた品種であろう。右の文書によれば「今明日間」に刈り取られるべきものであり、右の『令集解』の収穫時期よりも早いことになる。収穫法は、当時は稲の単位が「束」(穂首を結束したもの)であったことからすれば、穂首刈りが多かったと思われるが、鉄製曲刃鎌を用いた根刈りも徐々に普及しつつあったようである。収穫がすむと人びとは神に収穫を感謝する祭を行う。春の予祝祭とならぶ秋の収穫祭であり、人びとは村の神に初穂を捧げて一年の収穫に感謝するとともに宴を催したと思われる。
 冬は稲作作業は一息つく季節である。しかし、この時期に農民は租税の貢進や徭役労働などを行わねばならなかった。調庸は若狭国は十月三十日までに、越前国は十一月三十日までに農民が京まで運搬せねばならず、運脚になった人およびその戸にとっては重い負担となった。また、雑徭や雇役などの徭役労働は、農閑期である十月から二月にかけて重点的に課された。収穫後も農民は忙しい日々を送っていたのである。
 



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