Fukui Prefectural Archives

福井県文書館ミニ展示

Mini Exhibition

概 要 展示内容 LINK

「左内の手紙」

 橋本左内(1834-59)の手紙4通が巻物に仕立てられています。いずれも、安政の大獄で左内が拘禁される直前の1858年(安政5)5月から9月にかけて、江戸にいた左内から藩校明道館助幹事であった榊原幸八と伊藤友四郎にあてたもので、左内全集には収録されていない手紙です。

会 期

平成25年10月25日(金)~11月10日(日) ※終了しました。

会 場

福井県文書館閲覧室

展示内容

榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状
榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状

安政5年(1858)5月~9月「榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状」 福井県立歴史博物館蔵

 藩主慶永が大老井伊直弼によって隠居・謹慎の処罰を下された直後に書かれた手紙です。
 「当月五日之義」とは、福井藩主松平慶永(春嶽)が大老井伊直弼によって隠居・謹慎の処罰を下されたことを指します(安政五年七月五日)。これは、その十日後に書かれた手紙で、悲嘆にくれる左内の胸の内が率直に表現されています。
 こうした左内自身の心情を吐露した手紙は今のところ、他にはみつかっていません。

以別楮 得御意候、愈御
清安奉拝賀候、然者
当月五日之義者、其翌
六日大早着之上、既ニ
御承知与奉存候、其節ハ
倉皇錯愕、一筆
も不呈、多罪御用捨
可被下候、扨衰世之
習無致方ハ不及申
義ニ御座候へ共、如何相
考候而も臣子之情痛
嘆ニ堪兼、誠ニ血涙
之至、両兄ニも定而不容
易御憤懣与奉推察候、
小拙抔者最早志
気銷沮仕、豪釐も
世ニ望なく存居申候、此
後ハ何分ニも再御枉
冤之清弁奉祈ノ外
なく与ハ奉存候へ共、泥々
滞々の廟堂、有□
振力可申呉者も見当
不申、誠ニ君子道消、
小人道長之秋与深
慨嘆仕居候、尚委細ハ
村田抔より御聞取、今後
之御工夫能々御研
究被下、小拙之心得等も
御注意被成下候様万
祈仕候、拭涕書之

 七月十五日  紀
  両兄

榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状
榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状
榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状

安政5年(1858)5月~9月「榊原幸八、伊藤友四郎あて橋本左内書状」 福井県立歴史博物館蔵

 安政五年(一八五八)五月二十七日付けで、橋本左内(在江戸)から、藩校明道館の助幹事(副校長)榊原幸八・伊藤友四郎両名(在福井)にあてた手紙(部分)です。
 まず、四月に福井に到着した横井小楠の体調を尋ねています。これまで見つかっている資料では、左内は小楠を「先生」と呼ぶことがほとんどなかったため、注目される表現です。
 また、明道館の運営に対して「御もっともに存じ奉り候(それでよい)」「承知いたし候」といったコメントをしており、藩校明道館の学監同様心得(校長)の職を去って江戸にいた左内が、なお実質的に明道館を監督する位置にあったことがうかがえます。
 とくに入用品について算科局が幹事局の手許をへずに直接江戸に伝えたいといってきていることに対しては、「これはよくないこと」ときっぱりと断じていました。丁寧ではありますが、たたみかけるような論調で「この『手軽』の二字が、かえって後にあまたの紛擾を引きおこす根元となる」として、よく考えるよう指示しています。

(前 略)
一小楠先生御不快之由、只今ニてハ
 如何御坐候哉、過日三国辺へ御出之御
 沙汰承候、御相当候哉、其後ハ如
 何、尚後便詳悉ニ可被仰遣候
一朝之内横君登館講究、
 夕方会読之よし、御尤ニ奉存候
一武場詰半日ニ相成候由、承知
 致申候
一算科局より此表へ詰居候者江直に
 入用之品申越度旨、致承知候、
 乍併此義ハ不宜義ニ被存候、其
 仔細者、算科より一応幹事局
 迄申出候へ者、総而御道具ニ相成候
 者之類ハ幹事ニ而用不用御取
 極可有之筈ニ候へ者、愈御用ニも
 可相成者ハ幹事より此表へ御
 申遣ニ相成候上者ニて何成とも相
 調御廻し可申筈ニ御座候、然ルニ
 幹事局御手許も不経、直ニ
 算科より同勤内へ申遣し候様
 相成候而者、後日如何の義出来候
 而も幹事ニて御承知無之廉
 有之候様相成、御締方不宜様
 奉存候、依之算科よりハ矢張
 直ニ不申越、幹事局へ申達
 候上、幹事より小拙迄御申越
 之手続ニ被成置候様方可然奉存候、
 右様致候て何等之指支も無之
 義与奉存候、畢竟算科直取
 引ニ致候ハ者、自然手軽ニ相成候を
 好候故ニ可有之候得共、此手軽之
 二字、却て後来許多之
 紛擾可惹出根元与奉存候、
 尚篤与御勘考之上可被仰越候
(後 略)