概観 現代
 1945年(昭和20)8月の敗戦後、わが国は占領改革期に入り、物心両面の渇望をいやそうとする一種の解放のエネルギーに満ちあふれた時代となりました。

 福井県においても、改革の諸成果を反映したさまざまな動きが県民の間に生まれます。たとえば、男女平等選挙や首長公選などの政治改革は、国会をふくむ各級議会における女性議員の選出や、青年層の政治への積極的な進出をもたらしました。農地改革で力を得た農民たちは、47年の初めての知事選挙で候補を擁立し、官選知事出身の小幡治和候補に肉迫する勢いを示します。また民主思想の普及や教育改革は青少年の知識や文化に対する意欲を高め、学校や青年団、職場などを中心としたサークル活動の隆盛をみました。

 一方、48年には福井震災が発生しますが、これにとどまらず、この時期には戦時中の山林の荒廃により自然災害が頻発しました。食糧増産の要請も大きく、災害復旧や土地改良、治山治水などの巨額の公共土木事業が緊急の課題になったのです。また、占領改革にともない、政府からの大量の委任事務に加えて、学校や公民館などの施設の建築など、さまざまな行政サービスの拡大が自治体に求められるようになりました。公選首長の実現をはじめとして自治権が強化されたはずの地方自治体が、事業の実施やその財源の調達に関して中央政府への依存を急速に強めたことも、この時期の特徴でした。福井県では、小幡、羽根盛一、北栄造と5期20年にわたり、旧内務官僚が県知事の座をつなぎますが、これは中央政府とのパイプの太さがとりわけ重視されたことを象徴しているといっても過言ではないでしょう。
北陸自動車道福井北インターチェンジ付近
北陸自動車道福井北インターチェンジ付近
               近畿地方建設局福井工事事務所提供


 さて、県民生活が「豊かな社会」へと変貌を開始するのは、59年に初当選を果たした北知事の時期でした。北は選挙戦で庶民派を自認するとともに、「県政とは道路を直すことなり」と喝破します。自動車社会へと交通体系が大きく変化するなかで、国の地域開発計画の枠組みに沿って福井県の幹線道路網の整備が急速に進んだことは、目に見えるかたちで県民に生活の改善を実感させました。産業の面でも、幹線道路の沿線には近代的な工場が建設され、人絹から合繊への織物業の転換が進むとともに、化学工場や電機その他の機械工場も立ち並び、産業構造の変化の兆しがようやく現われます。

 そして、経済成長が県民の関心の多様化をもたらすなかで登場したのが、67年から5期20年にわたり知事の座を堅持した初の県人知事、中川平太夫です。労農提携を旗印に選挙戦に勝利した彼は、その後、政策の重心を自民党寄りに傾けつつも、最後まで自分の支持勢力は「県民党」だと主張しました。
 中川知事は当初、高度成長期の大規模拠点開発の延長上に政策路線を定め、九頭竜川河口地域の臨海工業地帯の造成を最大の課題に掲げました。また嶺南出身の彼は、北陸新幹線の建設を嶺南開発の鍵とみなすとともに、これにより福井市と小浜市を30分でつなぐことに嶺南・嶺北の一体化の夢を託しました。しかし、いずれの構想も、73年の第1次石油危機の発生により壁に突き当たりました。これ以後、「地方の時代」のかけ声とともに政府の地方に対する重点的な財政配分政策が実施され、福井県でも県下全域にわたって各種公共施設や産業基盤、道路の整備が進みました。なかでも嶺南地域の開発は、原子力発電所の立地の見返りとしてこれを実現する方向が強まっていったのです。
                          敦賀新港
                           敦賀新港
                        

 

←前ページ→次テーマ目次