19 昭和恐慌と農村(1)
 1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式取引所の株価暴落を契機に発生した世界恐慌の影響が、翌30年には日本に波及しました。アメリカ向け輸出生糸の価格下落による繭価の暴落が、農村や山村の養蚕農家を襲ったのです。福井県の養蚕戸数は、30年に約2万戸を数え、全農家の3割近くが養蚕業に携わっていました。30年は雪害を免れ養蚕農家が増産の意気込みをみせていたところへ、繭価の暴落が襲いかかったのです。

 さらに同年は、多くの農産物価格が下落し、秋に入ってついに米価が惨落しました。翌年にかけての米価は、白米1升が20銭にもならず、たばこ1箱とほぼ同じ値段であったといいます。また山村では木炭の価格低落、漁村では漁獲不振と魚価低落に苦しめられました。その結果、山村や漁村では小学校の欠食・欠席児童が増えつづけ、その対策として32年末から学校給食が開始されました。上級学校への進学者も激減し、大野中学や大野高女では32年度募集に志願者1名という事態に陥りました。農村社会では、比較的不況の影響が少ないとの理由から、都市の商工業や学校教員などの俸給労働者に対する反感がいっきに高まることになったのです。
米・繭の生産量・価額の変遷
   ▲米の生産量・価額の変遷
   1930年(昭和5)は全国的に豊作となり、「豊作飢饉」といわれた年
   であったが、福井県では水害・虫害に悩まされ、生産量は過去5か
   年で最低の94万石足らずであった。つづく31年は、生産量・価額と
   も、さらにそれを下回り、翌32年もわずかに上昇したにすぎない。
   その後33年は、過去の記録を更新するほど未曽有の大豊作に恵
   まれたが、価額はさほど上昇しなかった。『福井県統計書』による。
   ▲繭の生産量・価額の変遷
   1927年(昭和2)に雪による打撃をうけた後は、生産量・価額ともに
   上昇傾向にあった。そこへ30年にいきなり価額が半減し、同年の
   春繭相場は、過去30年来の惨落といわれた。その後、横ばい状態
   がつづき、33年にようやく回復の兆しをみせたが、翌34年にまたも
   急落した。『福井県統計書』による。

←前テーマ→次ページ目次