12 国民皆学の実現(2)
   東郷小学校の新築落成式(1902年)
   ▲東郷小学校の新築落成式(1902年)
   足羽郡東郷村の東郷小学校は、1902年(明治35)4月、新しい校地に2階建ての校舎を新築した。高等科を有し施設を充実した同校の式典に
   は、知事阪本之助をはじめ、視学官や部長なども出席した。写真は教育勅語奉読時のものと思われる。       福井市東郷小学校蔵
 こうした公開された試験は、明治20年代に入ると徐々に見直されます。日清戦争時には、子どもたちの身体や学校衛生への関心を高めた文部省は、過度の暗唱や試験による席次替えを制限しました。校庭や教室の広さ、窓の大きさに基準が設けられ、学校施設の充実は、「御真影」下付の条件でもありました。学校統合をともないながら、複数の教室と運動会のできる校庭をもった現在につながる学校の景観が整えられていきました。

 小学校卒業後の中等学校は、性別や進路によって複線型に分かれていました。県下の小学校教員を養成する師範学校は、学制当初から重視され、県費によって整備されました。

 一方中学校は、1886年(明治19)の中学校令によって1県1校に制限され、94年に小浜分校(97年独立)が置かれるまで、福井中学校1校のみでした。その後武生(98年)、大野(1905年)に県立学校が置かれ、1910年には私立の北陸中学校が設置されました。

 農業・漁業の実業学校もこれとほぼ並行して整備されます。1899年には県立農学校が、1902年には小浜水産学校が置かれました。工業学校は、1900年に県絹織物同業組合立染織学校が県立に移管されましたが、1年間のみで廃止され、商業学校は、福井市と敦賀町で市町立で設立されました。

 これに対して、女子を対象とする高等女学校は、明治期をとおして福井市に1校があるのみでした。このため明治30年代以降、各地域に裁縫学校や技芸学校が郡立や町立で設けられ、大正期に入って設立される実科高等女学校、その後の県立高等女学校の母体となりました。
就将小学校の年報
  就将小学校の年報
 沿革誌の記述に続いて、1883年(明治16)からは年ごとに綴られ
 ている。教育内容や学校行事の変容とともに、森有礼の視察や県
 下で初の小学校への「御真影」下付のようすなども記されている。
                         敦賀市立敦賀西小学校蔵
三国小学校の自発教育(絵はがき)
▲三国小学校の自発教育(絵はがき)
1920年(大正9)ころから、画一的な知識注入主義の教育への反省にたって
福井師範附属小学校や三国小学校を中心に県下各地の小学校で、子ども
の興味や自発性を尊重しようとする「新教育」が試みられた。
                                福井市 吉川侃利氏蔵
杣山小学校の敷地図(1901年)
▲杣山小学校の敷地図(1901年)
南条郡南杣山村の山間部の尋常小学校で、1901年(明治34)の校
舎新築時に作成されたもの。生徒数79名・2学級編制の小さな学校
ではあったが、体操場(校庭)が設置され、校舎の配置にあたっては
採光が配慮されていた。                     南条町蔵

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