11 米と地主(1)
 福井県では、1883年(明治16)で耕地面積6万町歩、このうち8割が水田、2割が畑地で、これを8万戸の農家が耕作していました。平均耕作規模は8反弱と、その多くが零細農家でした。農家数は明治後期から漸減傾向を示し、昭和戦前期には6万5000戸になります。また福井県では、冬季の深雪や粘土質の湿田が多いという地理的条件に、農村織物業の進展が加わり、明治20年代以降、北陸地方の典型的な「水稲単作プラス兼業」地域という性格が強まります。
小作地率
                   ▲小作地率
                   越前では、今立郡など丹南3郡の小作地率が高く、1920年代後半には、この地域を中
                   心に小作争議が発生した。『福井県統計書』による。

反収
            ▲反収(1881〜1941年)
            遠敷郡と坂井郡では、1900年代にはいると米の反収が逆転している。九頭竜川の河川改修と1921年(大正10)で
            県下の2分の1(約3500町歩)におよんだ耕地整理が、坂井郡の反収を大幅に増加させた。『福井県統計書』による。
 ところで明治10年代の後半、松方デフレによる経済不況から、地租の納められない農民が小作農に転落し、江戸時代から始まっていた地主の土地集積がいっそう強まりました。

福井県の小作地率をみると、1887年には40%に達し、さらに明治後期には45%をこえて、昭和戦前期までほぼこの水準で推移します。福井県の地主制の進展は、近畿諸県と同じように比較的早く、小作農の比率の少ない、在村中小地主を中心とする地域でした。

 日本の地主制には近畿型(農民的商品経済が早く発展)や東北型などとよばれるような地域差がみられますが、福井県でも、越前と若狭では農業のあり方に大きな差異がありました。地主制の規模や進展の度合いが異なったほか、米の平均反収でも坂井郡と遠敷郡を比べると、明治前期には遠敷郡を下回っていた坂井郡が、明治末年には安定した高反収を実現し、大正期には1俵以上の格差が出ていました。

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