35 水戸浪士(1)
 ペリーが浦賀に来航して以来、国内では攘夷論がさかんとなりました。水戸藩主徳川斉昭は、こうした動きの先頭に立っていました。斉昭が死去すると藩内は2分され、尊王攘夷論の立場をとる藤田東湖の子小四郎は、1864年(元治1)3月に筑波山で仲間とともに天狗派を旗あげしました。しかし、幕府の弾圧によって、攘夷の企てはあえなく失敗してしまいました。

 この挙兵に失敗した天狗党は、武田耕雲斎を首領として、挙兵の志を朝廷に伝えるための上洛を企てました。64年11月1日に、「奉勅」とあい色に染め抜いた幟旗を先頭に常陸国大子を発ち、信濃路・中山道・美濃路と西上を続けますが、幕府の命を受けた大垣藩や彦根藩にその行く手を阻まれ、やむなく道を北にとりました。

 一行約1000名は、蝿帽子峠をこえ越前大野郡に入り、ついで今立郡池田、南条郡今庄から木ノ芽峠をこえて、12月11日、敦賀郡へと入りました。浪士が最初に入った大野郡では、大野藩の兵が、上秋生・下秋生・中島・上笹俣・下笹俣の5か村を焼き払い、また橋を切り落とすなど、浪士勢の侵入を防ごうとしました。しかし、浪士らは、その行程の村むらで、乱暴を働くようなことはありませんでした。

 11日に敦賀郡の新保に入った浪士勢の行く手は、幕府の命令で動員された十数藩の兵に阻まれました。そこで浪士軍の大将である耕雲斎は、討伐軍の大将であった徳川慶喜や先鋒にいた加賀藩へその志を述べまた嘆願しましたが、それも空しく、ついに同17日に加賀藩に降伏しました。
 水戸浪士勢の西上行程
 ▲水戸浪士勢の西上行程
         拡大図 21KB
 水戸浪士勢の越前国内行程と包囲網
 ▲水戸浪士勢の越前国内行程と諸藩
  包囲網         拡大図 27KB
 「諸大名水府正士対陣之図」
 ▲「諸大名水府正士対陣之図」                  敦賀市 山本勝久氏蔵
 新保本陣
 ▲新保本陣
 1864年(元治1)12月11日、
 武田耕雲斎はここに陣を置
 いた。それ以降、新保陣屋
 ともよばれている。
           敦賀市新保 

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