27 藩校と寺子屋(1)
 江戸時代において、各藩がおもに家臣やその子弟のために設けた学校を藩校といいます。 

 福井藩では、1819年(文政2)桜の馬場に学塾が設けられました。これが正義堂です。ここでは、おもに四書五経の句読を授けることが行われていましたが、費用の問題などもあり、34年(天保5)閉鎖されました。

 その後、16代藩主慶永は藩政改革の一環として文武の充実を掲げ、55年(安政2)明道館を開設しました。科目は翌56年に橋本左内が明道館に登用されて以後充実し、経書科、国史科、兵書武技科、蘭学科などがありました。特に、蘭学は重要視され、57年4月には洋書習学所が明道館内に設置されました。同年8月の左内の出府後は村田氏寿により運営され、58年4月には熊本藩から横井小楠が招かれ、指導がなされるようになりました。

 小浜藩では初代藩主酒井忠勝以来、儒学を中心に学問の振興に力を入れており、7代忠用の時、京都望楠軒の講主小野鶴山を招いています。鶴山の死後同じく望楠軒の西依墨山が招かれ、彼を教授として、1774年(安永3)藩校順造館が開校しました。これは越前・若狭の諸藩の中では最も早いものです。

 順造館では行儀・礼儀の指導が重視され、朱子学以外は禁止されました。教科書としては四書五経のほか、「小学」「近思録」などが使われたようです。

 このほか、越前・若狭の藩校として、丸岡藩平章館、鯖江藩進徳館、勝山藩成器堂、大野藩明倫館、府中立教館があげられます。

 一般庶民の子弟をおもな対象とした学校が寺子屋です。越前・若狭においても江戸時代を通して500以上の寺子屋が設立されました。時期は幕末期が大半を占めています。指導には武士や僧侶があたり、おもに読み・書き・そろばんを教えたようです。

 丹生郡家久村の木村家では4代善通以下7代目までの当主が寺子屋での指導をしていたことが知られています。5代周房のころには300人余りの門弟がおり、なかには南条郡白崎村など10キロメートル以上も離れたところから通っていた者もいました。科目は読み・書きが中心であったようで、当家には手習いの反故紙を和綴にした書物が残っています。
手習い反故紙
 ▲手習い反故紙
 この反故紙の裏面が和綴の
 「和漢故事文選抜書」に利用さ
 れている。
  武生市 木村孫右衛門氏蔵
木村家筆塚
 ▲木村家筆塚
 筆塚は師匠の学恩に報いるため筆子たち
 が塚あるいは碑というかたちで残したもの
 である。木村家のものは4基並んでいるが、
 写真は1番新しいもので1869年(明治2)に
 建てられている。       武生市本承寺
手跡并諷弟子帳

手跡并諷弟子帳
木村家に残る1719年(享保4)の門人帳である。手跡の門人75人、謡16人、読み23人の合計114人が記されている。門人の通学圏は枝村も含めて27か村におよんでいる。
                       武生市 木村孫右衛門氏蔵
手跡并諷弟子帳(表紙)

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