17 紫式部の見た越前(2) | |
塩津山を通る道は、古くから近江と越前を結ぶ道でしたが、険しく難儀な道でした。そこを「賤の男のあやしきさま」をした者たちに輿を担がれ進むにつれ、心細さはつのったことでしょう。こうして越前に入った為時・式部一行は、当時の慣例に従い、国府の官人が国境で出迎える坂(境)迎えを受けたことでしょう。そして敦賀を経由して武生にあった国府に入りますが、その間の経路は不明です。国司の館が彼らの新しい住処です。 越前は雪深い国です。冬を迎えしだいに寒さが厳しくなると、式部の歌にも雪が多く詠み込まれるようになります。しかし目の前に見える日野岳(日野山)の雪を見ても、都の西の小塩山の雪を思い出します。慣れない雪国の生活は、式部の心を暗くしていきます。 降り積みていとむつかしき雪を掻き捨てて 山のやうにしなしたるに人々のぼりてなほ これ出でて見たまへといへば、 ふるさとに帰る山路のそれならば 心やゆくとゆきも見てまし 「帰る山路」は今庄町の鹿蒜と「帰る」を懸けたもので、早く帰りたいという気持ちを語っています。このように彼女にとって越前は雪深い鄙の国で心晴れず、帰京したい心でいっぱいだったようです。 そして翌年の晩秋か初冬のころ、式部は父と別れて、1年半いた越前にひとり別れを告げたのでした。おそらくそれには結婚のこともあったのでしょう。のちに夫となる藤原宣孝からは、越前に来ていた唐人を見に行こうと誘われたこともあったのです。鹿蒜山・木ノ芽峠を越えての帰路、伊吹山の雪を見て、「名に高き越の白山ゆきなれて伊吹の岳をなにとこそ見ね」と詠みました。思い出す白山の雪は、もう彼女の心を暗くするようなものではなくなっていたのです。 |
![]() ▲夜明けを迎えた雪化粧の日野山 武生市提供 |
![]() ▲藤原為時一行の越前下向再現風景 紫式部越前武生来遊千年記念事業実行委員会の主催で1996年 (平成8)10月に行われた。為時や紫式部が実際に木ノ芽峠を越え て来たかどうかは不明。 |
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![]() ▲三条西家本 「紫式部集」 8行めから、「こよみにはつゆきふるとかきつけたる日、めにちかき火のたけと いふ山のゆきいとふかう見やらるれば、ここにかくひののすぎむらうづむゆ き、をしほの松にけふやまがへる」とある。 宮内庁書陵部蔵 |
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![]() ▲武装した郎党を従え任国に下向する新任国司 「因幡堂縁起」 東京国立博物館蔵 |