13 北陸道と北の海つ道(2)
 平安時代になると、租税・官物として米などの重い物を都へ運ぶ場合には、日本海航路や琵琶湖水運が広く利用されていたことがわかります。『延喜式』の規定では、若狭国を除く北陸道諸国は日本海航路で積荷をまず敦賀に回送し、駄馬に積み替えて陸路を琵琶湖北岸の塩津に運び、さらに湖上水運で大津に荷揚げし、陸路で平安京へ搬入するのが公定ルートになっています。若狭国だけは陸路で琵琶湖西岸の勝野津へ運び、そこから湖上水運で大津に向かうことになっています。しかし、平安時代中期以降になると北陸道諸国からの物資の回送拠点として、敦賀に加えて気山津が知られるようになります。この場合の輸送経路は、気山津から陸路で若狭街道(九里半越え)を利用して琵琶湖西岸の木津に至り、湖上水運で大津に向かう新しいルートです。このように時代が下がるにつれて水陸交通路の複線化が進んでいったようです。 発掘された北陸道
▲発掘された北陸道
幅約6メートルで側溝がつく。写真は直線道が折れ曲が
る位置にあたる。 富山県小矢部市桜町遺跡
                    小矢部市教育委員会提供
木ノ芽峠付近
▲木ノ芽峠付近 敦賀方面を望む。
三国湊
▲三国湊                三国町郷土資料館提供
敦賀津
▲敦賀津                   福井県埋蔵文化財調査センター提供

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