概観 原始・古代


船岡式製塩土器
船岡式製塩土器  小浜市教育委員会蔵

 原始・古代の若狭・越前という時、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。鳥浜貝塚、継体天皇、若狭国分寺、東大寺の荘園、渤海使の来航、泰澄和尚、利仁将軍、紫式部、源平合戦など、それぞれの関心に応じてさまざまな答えがあると思います。いずれも若越の歴史にとって欠くことのできないものばかりです。しかし若越はそこだけ孤立して歴史の歩みがあったわけではありません。

 日本海側は今では「裏日本」とよばれるが、かつては表日本であったとよく言われます。一衣帯水という言葉そのままに、大陸・朝鮮半島に向かい合う日本海側は、そこからの使者や文物をいち早く受け入れました。三方町鳥浜貝塚から出土した遺物は、すでに縄文時代から交流の範囲が日本海にとどまらず、東シナ海まで広がっていたことを示しています。8世紀には渤海との国交が始まりますが、渤海使は若越をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、敦賀には彼らのために松原客館が設けられました。日本列島内の諸地域との交流が日本海を通して行われたことも当然です。また九頭竜川をはじめとする河川も交流を促進する道となりました。

 他地域との交流・関係で、若越に決定的に大きな政治的影響を与えたのは、今の奈良県に拠点を置いた政治勢力とのものです。すなわちヤマト王権は勢力を広げるにつれ、各地の首長層と同盟や統属関係を結び、彼らを国造や県主という地位につけていきました。若越でも若狭国造・三国国造などの国造が知られ、ヤマト王権の影響下に入ったことがわかります。その象徴が前方後円墳です。

 ところが6世紀の初頭、応神天皇の血を引くという越前にいた男大迹王が即位します。継体天皇です。この即位が平和裡のものかどうかはともかく、越前にとっては大きなできごとでした。

 7世紀後半からヤマト王権は律令体制に移行する動きを始め、八世紀初頭に律令国家が成立します。これは若越のあり方にも大きな影響を与えました。若狭・越前という国が成立したのも、この動きのなかでです。国の下には郡・里が置かれ、中央集権的な体制ができ上がり、かつての国造などの首長層は、郡司という地方官僚に転化しました。 
  足羽郡糞置村開田地図  正倉院宝物
足羽郡糞置村開田地図  正倉院宝物
そして若越の人びとは、口分田を支給される代わりに、租庸調をはじめとする税を負担させられるようになったのです。とりわけ若狭では、国中で調は塩を貢進し、またとくに遠敷郡青里の人びとは贄として、さまざまな魚介類を貢納しました。日本海の海の幸は、律令国家にとっても重要な物資だったのです。条里地割が施行されたのもその時です。さらに道守荘や糞置荘をはじめ、多くの東大寺の荘園が越前に置かれ、東大寺の経済を支えました。東大寺とともに、国家によって各国に造られたのが国分寺・国分尼寺です。紫式部は越前国司となった父とともに武生にあった国府に来たのです。
 このように中央の政権との関係で、若越の古代史は大きく推移しました。しかしそのことは、中央の動きですべてが決まるとか、それ以外の他地域との交流は重要でないとかを意味するものではありません。たとえば継体天皇が即位できた背景には、越前・近江・尾張など近隣地域の首長層同士のつながりがあったとみられます。日本海・北陸道はさまざまな地域・階層の人びとの通る道であり、そこに多くの交流が生まれました。泰澄伝承の広がりにも、地域をこえた人びとの信仰がうかがえます。また平安時代末、中央の支配を排除し、勢力を拡大しようとする武士団相互の複雑な動きのなかで、源平の内乱が越前にもおよんできたのです。中央や各地域との絡まりのなかで、若越の原始・古代史は展開していきました。

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