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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    二 総合農政下の農業
      兼業の深化と請負耕作の進展
 農業生産における大幅な省力化にともなって、福井県農家の兼業化はいっそう進んだ。一九七〇年(昭和四五)すでに一〇万人を切っていた農業就業人口は、七〇年代から八〇年代を通じて大きく減少し続け、八〇年代後半には五万人を割り込むにいたった。他方、他産業就業人口は、七〇年に一〇万人をこえて以来、農家総人口の減少にもかかわらず、ほぼ横ばいで推移した。その結果、兼業農家のうち農外収入の多い第二種兼業農家は、七〇年の六四・五%から八〇年には八四・一%、九〇年には八九・八%に達した。また、兼業形態においても、日雇いや臨時雇いなどの不安定就業がいっそう減少(七〇年二五・四%、八〇年一二・四%、九〇年五・一%)したのに対して、恒常的勤務が大きく増大(七〇年五六・三%、八〇年七一・二%、九〇年八三・六%)したのである(「農業センサス」)。
 六〇年代の兼業化は農業労働力の深刻な不足を招いたが、七〇年代以降本格化した機械化の進展はこの問題を大幅に解消し、兼業への農家労働力の振り向けをいっそう促進した。それは、減反の拡大にともなって生じた農家経済の悪化を農外就労の拡大によって補おうとする福井県農家の選択であったということができる。しかし、こうした兼業の深化は、他方で、零細な経営規模に比して過剰な農業機械への投資を招き、農業部門それ自体としては経営悪化を促進し、また、「日曜農業」による農業生産の質的低下が懸念されることにもなった。
 このような状況において、稲作における種々の請負耕作が広まった。たとえば、稲作の作業委託は、田植や稲刈りなど機械導入が進んだ作業を中心に、七〇年代から八〇年代をとおして増加し続けた。その結果、なんらかの作業委託を行った農家数は、七〇年の二万一六三五戸から、八〇年の二万三四三〇戸、九〇年の三万二五九一戸へと増大したが、とりわけ、春作業から秋作業までの全作業を委託する農家は零細規模層を中心にめだってふえ、九〇年には全稲作農家の六・八%(七五年は二・三%)に達した。他方、作業を受託する農家数は、七〇年代から八〇年代をとおして、ほぼ三五〇〇戸前後で推移したが、しだいに経営規模のより大きい農家がより広い面積を請け負う傾向が強まった。また、耕地の借入でも、借入戸数は漸減したが、総面積および一戸あたり面積が増大した(「農業センサス」)。
 こうした請負耕作の進展を県・市町村および農協も早くから後押しした。たとえば、七〇年から、県と県農協中央会は、組織的な請負耕作のモデル事業(モデル地区に坂井町と鯖江市を指定)を開始し、また、七二年には、県農協中央会が、機械への過剰投資回避と農作業委託の推進をはかるため、「農業機械登録銀行」を設置した(『朝日新聞』70・4・24、『福井新聞』72・2・21)。また、右記モデル指定と並行して国の「米生産総合改善パイロット事業」の指定をうけた坂井町では、三〇〇〇トン規模のカントリーエレベーターや大型機械などの導入によって、「坂井方式」と呼ばれる農協主導の請負耕作組織を確立し、以来農作業の受委託を大きく拡大した(白崎暉雄「福井・坂井平野の農業と経営展開」『兼業稲作からの脱却』)。
 さらに、八〇年代に入ると、八〇年に国が「農用地利用増進法」を制定して、七〇年の農地法改正に端を発した「農地流動化」政策のいっそうの推進をはかったこともあって、請負耕作は、農作業の受委託から農業経営の受委託へと進んだ。たとえば、農用地利用増進事業による福井県の利用権設定面積は、累計で八〇年の九八八ヘクタール(設定率二・五%)から九〇年には二六四四ヘクタール(設定率五・六%)へと増大した(『北陸農林水産統計』)。
 こうした請負耕作の進展にともなって、規模拡大を進める農家が増加した。すなわち、七〇年から八五年にかけて、福井県の経営規模別農家数は、ほぼ二ヘクタールを境にそれ以下の層での減少とそれ以上の層での増加がみられるが、とりわけ、三ヘクタール以上層は七〇年の八四戸から八五年の六二三戸へと大きく増加したのである(「農業センサス」)。ただし、こうした規模拡大は受託によるものが大半であって、農地購入などによる所有権移転をともなうものは非常に少ない。というのも、この間福井県の農地価格(中田一〇アールあたり平均)は、七五年の一三二万円(全国平均九一万円)から、八〇年一八四万円(同一三一万円)、八五年二三三万円(同一六六万円)へとつねに全国を大きく上回る高価で上昇し続け、農地購入による規模拡大はいよいよ現実的可能性を失っていったからである(『北陸農林水産統計』)。



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