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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    二 福井臨海工業地帯造成計画の軌跡
      製錬工場誘致の中止
 このように各方面に波紋を残しつつ急ピッチで進行した臨工造成事業であったが、一九七三年(昭和四八)末の第一次石油危機の到来により、大きな壁にぶつかった。七四年には立地の姿勢をみせていた企業があいついで進出を断念した。土地の予定分譲価格も石油危機直前の七三年九月には一坪平均一万八六八〇円と県は言明していたが、七六年三月の古河アルミとの用地売買契約では坪四万円になり、価格はさらに高騰して五、六万円台となるという状況であった。起債の利子分および事業単価の上昇が分譲価格に上乗せされるとともに、年々の上昇分をその都度上積みするのではなく長期的に推計した上昇分を早く売れる土地に割高になるように配分するという方式で価格が算定されたからである。七六年四月からは、当初計画どおり、これまで三国港に五社が設置していた石油タンクの移転を含む造成地北側沿岸の石油配分基地への企業誘致にとりかかった。しかし、予定していた石油会社一一社のうち四社が進出を断念、北電および七社(五グループ)への分譲となり、予定の三分の一が売れ残る結果となった(『サンケイ新聞』73・9・28、『朝日新聞』74・6・27、『福井新聞』76・5・8、77・3・26、『読売新聞』76・6・8、『福井臨海工業用地等造成事業決算報告書』)。
 福井臨工が中核業種として予定していたアルミ製錬業は、石油危機の影響をまともにうけた産業の一つであった。低コストの水力発電に依存する比率の高い欧米のアルミメーカーに対して日本の製錬メーカーは重油による発電への依存が強く、日米企業のトンあたりモデルコストは七二年に日本が約二〇万円でアメリカより二万円弱高かったのに対し、七五年には日本では約三二万円と高騰しアメリカとの格差も一〇万円弱に拡大していた。七四年の世界的なアルミ地金価格の軟化と国内の総需要抑制政策の浸透により、国内アルミ製錬各社の採算は著しい悪化を示していた。七五年七月には、通産省より需給安定をはかる目的で国内・国外の製錬部門新規投資計画の調整に関する指導が行われ、一一月にはアルミ製錬五社(日本軽金属・昭和電工・住友化学・三菱化成・三井アルミ)に対して四割以上の操短を命ずる行政指導があった。これに対してこれら製錬メーカーからは、新規参入を予定している住軽アルミ(山形県酒田北港地域工業地帯)、古河アルミなどの投資計画の延期を指示するよう通産省へ要請を行った。古河アルミは七六年三月に用地買収契約に調印し計画断行の姿勢を示したが、結局七月、翌年三月末までの着工延期を発表、そして一二月には圧延部門等での立地の含みを残しつつ、製錬事業計画の断念を明らかにした。一方、共同火力発電所は七六年四月に着工しており、製錬工場進出の中止にもかかわらず七八年九月に営業運転を開始した。八〇年一二月には北電が古河アルミの所有株式全額を買い取ることで、共同火力発電所は事実上、北電所有の発電所となったのである。
 製錬工場建設断念の四年後の八〇年六月、古河アルミは圧延工場建設の計画を発表、八三年五月に最新鋭の熱間および冷間圧延施設が完成した。いみじくも完工式に来県した古河アルミ社長が述懐したように、製錬工場建設に見切りをつけたことは、事後的にみると、福井臨工にとっては不幸中の幸いであった。酒田では住軽アルミが七四年末から九万トン規模の製錬工場建設に着手しており、七六年末に完成、操業を開始したが、結局円高の進行と第二次石油危機の発生により国内のアルミ製錬業が全面撤退を余儀なくされるなかで、同工場も八二年五月をもって操業停止となり、酒田の臨工計画も決定的な打撃をこうむったのである(『通商産業政策史』14、『日刊工業新聞』75・7・4、『日本経済新聞』76・3・27、7・17、『福井新聞』76・3・31、77・5・10、80・7・7、81・3・6、83・5・14、『読売新聞』76・12・22)。



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