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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    二 福井臨海工業地帯造成計画の軌跡
      石油備蓄基地の誘致
 臨海工業用水道は一九七八年(昭和五三)四月に給水を開始したが、給水先は火力発電所のみ(日量六五〇〇立方メートル)にとどまり、六月に福田赳夫首相らを迎えて福井港の開港式を盛大に挙行したものの、石油配分基地に接岸する小型タンカー以外に港湾を利用する企業もなく、関税法上外航船の入港が可能となる「開港」指定をうける見通しは皆無であった。中核企業の誘致が頓挫し、その他の工場誘致のめども立たないまま、臨工問題は中川県政の最大の難題となったのである。古河アルミが事実上進出の無期延期を決定した七七年五月、県庁内で臨工推進本部が六年ぶりに招集され、企業誘致への取組みのいっそうの強化がはかられたが、もはや誘致業種の別を問う猶予はなかった。おりからの関西電力高浜原子力発電所三・四号機の建設同意問題とからんで、県は関電に関連企業の誘致を依頼したり、国の原子力長期計画案に関連してウラン濃縮工場の誘致にも食指を伸ばした。こうしたなかで浮上してくるのが、七五年一二月公布の「石油備蓄法」にもとづく石油備蓄基地建設という国家プロジェクトの導入である。
 国家石油備蓄基地構想は、石油危機後の石油の安定供給をはかるために、民間備蓄九〇日分に上積みして石油公団による三〇日分の国家備蓄を計画するもので、福岡県白島などに海上備蓄されるほか、青森県むつ小川原、北海道苫小牧東部などが陸上備蓄基地となるなど、結果的にみると六九年の第二次全国総合開発計画(新全総)にもとづく大規模開発プロジェクトの失敗の事後処理的色彩の濃いものであった。中川知事が公式に誘致を表明したのは七八年六月であったが、翌七九年六月にまとめられた計画では、石油貯蔵タンク三〇基、計三三〇万キロリットルの石油を備蓄するというもので、石油の搬出入は沖合一九〇〇メートルの地点に設置された一点係留ブイで行い、ブイから貯蔵タンクまで海底三メートルに送油管を敷設すること、オイル・インを八三年四月とすることなどが決定された。
 経済効果の薄いこの計画に対して県経済界の反発があり、また当初この誘致にともなう土地売却により八三年度までの企業債償還を確保するとした県の見通しの甘さが明らかになるにつれて臨工財政問題が県議会での紛糾の中心となるが、計画の最大の障害は、事故による重油流出を懸念する地元漁民の反対であった。七九年四月には、三国・三国港・三国港機船底曳網・福井市・越廼・越前町の六漁協が北越漁民大会を開催し、備蓄基地絶対阻止を決議し、計画撤回へむけて署名・陳情運動を開始した。しかし、当初反対の立場にあった県漁連が年末には柔軟路線へ転換し、福井港の一部に漁業基地を設けること、漁業振興基金を設けて北電や関電に出資を求めることなどを条件に誘致に同意した。また地元および周辺自治体も、石油貯蔵施設立地対策等交付金約二七億円が防災施設・道路整備等を対象に交付されることもあり、八〇年なかばにはほぼ同意の方向へむかった。孤立したかたちとなった反対派三漁協も、八〇年一二月に三国港、八一年五月に福井市の両漁協が総会で建設同意に転じ、海女組合員の反対が強かった三国漁協も、紛糾の末一二月の総会で補償交渉の開始を決定した。補償総額は、関連九漁協あわせて約一九億円にのぼった。
 八二年一月に、第三セクター方式の管理会社福井石油備蓄株式会社(石油公団七〇%、石油各社一五%、その他一五%出資)が設立され、八三年三月、石油備蓄基地は着工となった。オイル・イン開始は当初計画より三年遅れて八六年六月となった(『朝日新聞』78・4・28、6・28、8・1、79・4・11、6・21、11・1、12・5、26、『福井新聞』80・1・30、4・22、5・15、22、6・18、12・15、81・5・31、9・11、12・10、82・1・8、83・1・19、3・11、86・5・24、『福井臨海工業地帯等造成事業決算報告書』)。



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