目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    二 福井臨海工業地帯造成計画の軌跡
      公害反対運動
 すでにみたように、マスタープランの公表と北電福井火力発電所の着工は、全県規模での公害反対運動に火をつけることになった(第五章第二節三)。一九七二年(昭和四七)二月にマスタープラン改定案が公表されてアルミ製錬工場の誘致とそれにともなう火力発電所の増設が明らかとなり、また九月に北電福井火力発電所の試運転がはじまり、低硫黄分重油の使用と排煙脱硫装置の設置について北電側が態度を明らかにしないまま翌年一月に営業運転を開始すると、公害反対の声は一段と高まった。「福井県住民組織連合会」では七二年一〇月に火力発電所増設反対一〇万人署名運動を開始し、七三年三月には署名数が八万五〇〇〇人に達した。また「公害から三国町を守る会」では北電との公害防止協定は住民を無視しているとして、七三年二月から三国町に対して行政監査請求の署名運動に取り組んだ。このほか、坂井郡農協連絡会や坂井郡六町で構成される坂井郡公害対策協議会も火力発電所増設反対の姿勢を明らかにした。実際、県内各所の大気汚染調査で試運転開始後に硫黄酸化物の濃度が高まっていることが報告され、その後の常時監視測定局の測定結果では、春江町大石小学校横の測定地点で硫黄酸化物の一時間値の年平均値が七二年度〇・〇一九ppm、七三年度〇・〇二一ppmと、国や県の環境基準を上回っていることが明らかにされている。これに対して、北電も七三年一月末に排煙脱硫装置の七五年末運転開始、二月末に一・四%以下の低硫黄分重油の使用を県へ回答した。県側でも七四年秋からの県公害センターにおけるテレメーターによる大気汚染監視を決定し、三国町でも独自にテレメーターシステムを導入することとなった(『福井新聞』72・10・14、73・1・24、2・25、『毎日新聞』72・10・15、『サンケイ新聞』73・1・4、8、3・16、『朝日新聞』73・1・18、2・7、74・6・12)。
 県ではアルミ製錬企業について、製錬五社との系列関係の薄い圧延三社と折衝を進めていたが、七三年三月には古河アルミの誘致の方針が固まった。当初計画は、年産七万トンのアルミ二次製錬施設二基と古河・北電共同出資による三五万キロワット規模の共同火力発電所二基というものであり、四月から県による住民説明会が開始されると、これに対する住民の不満の声はさらに強くなった。芦原・丸岡・松岡町議会などでは製錬誘致・火電増設反対が決議され、各地に公害反対を唱える住民組織が結成された。また県連合青年団も反対を知事に申し入れた。これに対して県では、古河アルミが技術提携により導入するとしたフッ素化合物処理装置(A398)を開発した米国アルコア社への県視察団に七市町の参加を要請したが、福井市・芦原町など四市町は参加を見合わせた(『サンケイ新聞』73・3・28、5・3、6・10、『北陸中日新聞』73・3・20、5・19、『読売新聞』73・5・22、『福井新聞』73・7・21、8・5)。
写真103 福井共同火力立地協定の調印

写真103 福井共同火力立地協定の調印

 一方、地元の半沢政二三国町長や三国町議会は古河アルミ誘致に賛意を示し、七月二七日、共同火力発電所の規模を二五万キロワット規模二基に縮小する条件での受入れを県に提案した。これをうけて県は古河アルミ・北電と交渉し、火電一号機の規模を縮小し、製錬第二期工事と火電二号機の出力等の詳細は後日決定するということで合意が成立し、九月四日、公害防止協定の内容を先送りにしたまま立地協定の調印が行われた。ここにいたって反対運動は最高潮に達し、社会党は闘争本部を設置、同党・県労評を中心に「アルミ・火電を阻止する共闘会議」が結成された。また日本科学者会議福井支部などは、庄司光・宮本憲一らを中心とする福井臨工調査団を結成、環境調査を開始した。環境庁からも、A398の性能、フッ素化合物についての測定計画や公害防止協定案など一二項目にわたる疑義が県に対して提出された(『読売新聞』73・6・26、『サンケイ新聞』73・7・4、9・7、『福井新聞』73・7・28、9・2、『朝日新聞』73・8・11、9・23、『中日新聞』73・9・8)。
 しかし、この立地協定調印を機に流れは誘致の追認へとむかうことになる。九月には県議会で地元選出議員による初の賛意表明が行われ、また芦原町をのぞく他の坂井郡各町議会も三国町の独走を恐れて公害防止などを条件として立地協定を承認する方向へ態度を変更した。県側でも臨工企業との公害防止協定に後背地自治体を参加させることを約束した。またフッ素化合物の風洞実験を通産省の機関に委託し、住民の生活環境への影響は少ないとの結論を得た。ただし、これには科学者会議福井支部より風洞実験は机上の空論にすぎないとの公開質問状が県に提出されたが、両者の見解の相違は平行線のまま終わった。一方、反対運動の側でもしだいに分裂の様相を示し、すでに「共闘会議」結成のさいに「公害から三国町を守る会」「県住民組織連合会」は参加を取り止めていた。既成政党が正面から介入の姿勢を示すことへの反発が強まったのである。七四年三月の三国町長選挙では「守る会」が社会・共産両党と一線を画した独自候補を擁立し、結局町長選は九五一九票対二六五八票で、前職の再選となった。こうして反対運動は下火になり、また火力発電所の排煙脱硫装置の設置、県の環境基準の強化など公害の防止措置が講じられ、さらに臨工への企業進出が頓挫したことから、公害問題が表立って取り上げられることは少なくなった。しかしながら、七二年より芦原町は毎年、公害対策健康・植物調査を実施しており、八四年一〇月に行われた報告会では、杉の立枯れが平野部で七四年ころから急速に進み、七七年ころからはそれが他の樹木にも広がっていること、土壌の異なる広範な地域の被害であることからその原因は火電の排出する硫黄酸化物と推測されることなどが報告されている(『毎日新聞』73・9・27、29、『朝日新聞』73・10・5、11・14、12・11、74・1・28、3・16、25、75・11・28、『福井新聞』75・10・22、84・10・25)。



目次へ  前ページへ  次ページへ