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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    五 内陸型工業の発展
      繊維機械・工作機械・下請部品加工
 福井県の機械工業は、繊維機械、工作機械、下請部品加工、電気機械、精密機械(眼鏡枠)に大別される。
 まず繊維機械は、明治末年から大正期にかけての力織機化ブームのなかで宇野製作所(一九〇七年創業)・和田鉄工所(一九一〇年創業)・富永鉄工所(一九一九年創業)などの力織機製造工場が出現したが、これらは石川県の津田駒、津田米のような大織機メーカーに成長する道を歩まず、準備機や付属設備、または部品加工の専門企業として戦後まで存続したものが多かった。一方、戦後急成長を示した企業としては、五〇年代後半の編レース・ブームにのって台頭した福井市の山本機械、武田機械というレースラッセル機メーカー二社があげられる。
 山本機械は一八九八年(明治三一)、山本織物機械製作所として創立された。わが国最初の国産ジャカード機を完成させたといわれる同社は、戦後高速トリコット機の開発に取り組み、さらに一九五九年(昭和三四)、国産初の多枚筬(一七枚筬)のレースラッセル機を完成させた。また武田機械は四五年武田鉄工所として農機具の修理から出発したが、編レース生産に携わるとともにレース機の開発に取り組み、山本機械を追って多枚筬レースラッセル機の完成をみた。編レースは単なる装飾から広幅衣料、カーテン、漁網など、合繊の普及とともに用途を拡大し、両社のラッセル機も高速化・量産化の方向へむかった(『福井経済』64・6、71・8、『福井県繊維産業技術史』)。六〇年代なかばからは、台湾、東南アジアなどへの輸出も活発化したが、さらにアメリカ市場へも進出する勢いをみせた。こうした世界市場への躍進を背景に、外資との提携も進んだ。まず山本機械は六六年にアメリカのモナーク・ニッティング社と業務提携し、同社の横編機の生産を請負うとともに、レースラッセル機のアメリカでの販売を委託した。武田機械は六七年七月、ラッセル機メーカー最大手の西ドイツのカールマイヤー社と提携し、カールマイヤー極東日本支店を発足、その後六八年九月、マイヤー社が武田機械の五〇%の株式を取得し、武田マイヤーが誕生した。なお、山本機械は六七年から業績が悪化し、アメリカのウォルター・キディ社および三井物産に八〇%の資本譲渡を行ったが、なお業績の好転をみず、七二年七月に解散し、高岡市のワシアルミの傘下に入った(『日刊繊維情報』66・6・8、10・8、67・7・12、68・9・7、69・4・12、72・7・12)。
 工作機械については、まず、戦時中に東京から工場疎開のかたちで県下に立地を行った、月島機械製作所(金津町)と津田製作所(当初鯖江町、のちに武生市)という、いずれも従業員二〇〇人以上を雇用する大企業があった。これらの企業は県内に下請企業を有し、一種のミニ・グループを形成していた。月島機械は各種工業用機械の設計より完成品までの一貫メーカーとして発展し、六一年には大規模な近代化投資を進めたが、六四年六月、全国的な不況のなかで資金繰りに困難をきたし、整理再建におよんだ。同年八月、日立造船と地元資本の半額出資による福井機械として引き継がれ、日立造船の系列下でプレス機械を主力に、化学機械、舶用機械などの生産を行い、アメリカ、東南アジアなどへの輸出の伸びを背景に、業績を伸ばした。一方、津田製作所は、戦後初期には芝浦製作所の下請工場として鯖江で東芝家電製品の部品生産に従事していたが、戦前の技術・経験を生かした汎用高速旋盤が軌道にのり、五八年には小浜工場、六四年には武生工場を新設、旋盤の量産メーカーとして急成長した(『福井経済』62・4、64・7、66・11、67・3、72・5)。
 これに対して県内資本による工作機械工場の多くは下請加工に従事しており、独立専門メーカーは少数であったが、そのなかで注目を浴びたのが松浦機械製作所(福井市)であった。同社は三五年、旋盤メーカーとしてスタートしたが、戦後、汎用フライス盤の開発・製作から電気制御式自動フライス盤の技術開発に乗りだし、六一年、「ミクロマン」と命名されたプログラムコントロール(PC)フライス盤が完成した。このPCフライス盤は、数値制御(NC)方式に比べて取扱いが容易で安価なため、非常な人気を博した。さらに六八年にはNC方式も完成し同社の技術力は高い評価をうけた(『おかげさまで創業五〇年』、『福井経済』63・4、70・4)。
 一方、下請部品加工は、二〇から三〇の第一次下請企業が平均五、六社の第二次下請工場を抱え、さらに従業員一〇人程度のこれらの第二次下請が、家内工業規模の外注工場を抱えるという構図になっていた。このほかに、県内の大企業の機械修理を行う下請工場も多数存在していた。県内下請部品加工の親工場は、小松製作所粟津工場とヤンマーディーゼル長浜工場の二つが中心で、前者は五五年ころからブルドーザーの部品製造工場の系列化に乗りだし、堀田製作所(福井市)を中心に下請企業は小松機器協力会福井支部を構成した。またヤンマーディーゼルの下請もヤンマー会を結成し、ディーゼルエンジン部品加工に従事していた(『福井経済』63・5、65・5)。



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