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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    五 内陸型工業の発展
      電気機械・精密機械
 電気機械工業は、一九四三年(昭和一八)に東京の芝浦製作所が小浜工場を、五一年に京都の村田製作所が丹生郡宮崎村に福井工場を設立するというように、県外大企業の単発的な進出からはじまった。前者は東芝の洗濯機用・エアコン用モーター、および家庭用井戸ポンプが主力製品であり、また後者はテレビ、ラジオ、通信機向けセラミックコンデンサーを製造し、五五年四月に福井村田製作所として独立、その後五九年に武生工場を設立して本社を武生市に移した。
 福井県の電気機械工業が飛躍的な伸びをみせるのは、六〇年代後半に生じた家電ブームにより県外の弱電機器メーカーの部品工場の設立があいつぐようになったときである。六六年に松下電器が福井市に福井松下電器、小浜市に若狭松下電器と二つの関連会社を設立したのを皮切りに、同年にはオリオン電機(武生市)、翌六七年には渋谷電器(小浜市)、高槻電器加工(三方町)、六八年には日本コンデンサー工業(大野市)、ワカサ電機(上中町)など、一〇〇人以上の雇用計画をもった県外企業の工場進出が決定された。さらに二〇人から三〇人規模の工場も多数設立された。いずれもコンデンサー、真空管などのテレビ、ラジオ用部品の製造、もしくは最終製品の組立工場であり、低廉な女性労働力を求めた工場立地であった。しかしながら六〇年代末になると、恒常的な労働力不足に悩まされていた繊維業界より電気機械工業の進出に対する批判が各地でわきおこり、七〇年には国内の家電ブームが若干下火となったこともあり、電気機械工場の立地はひとまず鎮静化した。
 最後に、産業分類上、精密機械に分類される、福井県の特産工業のなかで戦後もっとも成長した眼鏡枠工業について触れておこう。三〇年代に金張枠を中心に中国、インド向け輸出物を中心とする産地が形成されるにいたった鯖江を中心とする眼鏡枠工業は、戦時中の金の使用禁止や企業整備で約二〇工場にまで減少した。しかし参入の容易さから戦後ふたたび業者の乱立状態となり、五五年ころには業者数約五〇〇を数えるまでになった。戦後初期には、セルロイド製普通枠が主体であったが、五〇年代後半のアメリカにおけるサングラス・ブームをきっかけに、内外でサングラスの需要が急増し、福井県の眼鏡枠生産も、あらたに登場したプラスチック枠サングラスを中心に、年率一六%と推定される生産高の伸びを示した(『昭和三四年三月眼鏡産業産地診断報告書の概要』、『昭和四二年版福井県経済白書』、『昭和四八年福井県眼鏡類緊急産地診断報告書』)。
写真101 眼鏡枠工場

写真101 眼鏡枠工場

 輸出もふえはじめ、六六年の福井県の眼鏡枠生産高約四〇億円(全国の約八割のシェア)のうち輸出は約七億円といわれた。アメリカをはじめ東南アジア、中近東などが主要市場となっていたが、このころになると欧米の高級品、香港などの安価な低級品に夾撃をうけ、輸出の伸び悩みがみられはじめた。また、企業数約六五〇のうち、就労者五人以下が約五〇〇とされる零細業者中心の産地構造とブローカーの介在による無秩序な手形の乱発、廉価乱売、放漫経営など、この産地特有の取引状況が露呈し、六七年夏には過剰生産から連鎖倒産を招くことになった。業界では自主操短も実施できず、結局業者の自省を促す意味で、三万一〇〇〇ダース、約二五〇〇万円にのぼる在庫品の焼却処分を行ったのであった(『福井県眼鏡工業団地診断書』、『昭和四三年版福井県経済白書』)。



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