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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    五 内陸型工業の発展
      化学工業
 まず、福井県の化学工業の主要企業の一つは、一九四五年(昭和二〇)五月、大同化学工業の工場を引き継いで発足した信越化学工業武生工場である。戦後初期には、食糧増産政策のもとに化学肥料生産が奨励され、武生工場も、石灰石と石炭・コークスを電気炉で加熱して製造するカーバイド、およびカーバイドを原料とする石灰窒素肥料の生産に従事した。朝鮮戦争ブーム後、肥料の生産過剰が明らかとなると、新規分野として塩化ビニル樹脂生産にむけた転換を進めた。塩化ビニルは、カーバイドに水を加えて生成されるアセチレンに塩酸を作用させることにより製造されるため、カーバイド系企業にとっては格好の進出対象であったのである。信越化学は新日本窒素肥料と共同で塩化ビニルの企業化計画を進め、原料供給を信越化学が、塩化ビニル製造技術と製品販売を新日本窒素が担当することで、五五年三月、日信化学工業の設立が決まり、五六年一月に同社武生工場の塩化ビニル製造設備が完成した。同時に信越化学武生工場内にアセチレン発生装置が設置され、武生における塩化ビニル樹脂の生産が開始されることになった。
 塩化ビニル工業はその後急速な成長をとげ、日信化学工業の生産能力も当初の月産四〇〇トンから六四年には二七八五トンとなった。しかしながら各社の塩化ビニル増設競争は、より安価な製造技術の導入をもたらした。すなわち、従来のカーバイド・アセチレンによる製造法にかわり、石油化学によるエチレン・ジ・クロライド法、すなわちナフサ分解により得られたエチレンを二塩化エチレンにして分解することにより塩化ビニルモノマーを製造する方法が登場し、六四年以降、急速にこの製造法への転換が進んだのである。この塩化ビニルの原料・製法の転換は、日信化学および信越化学武生工場に大打撃をあたえた。六五年一一月に日信化学は信越化学の一〇〇%子会社となり設備の増設が計画されたものの、その後増設は見送りとなり、七二年九月には日信化学の塩化ビニル製造が中止されるにいたる。信越化学武生工場のカーバイドおよびアセチレン生産も縮小し、六〇年代なかばには同社全体の売上高の一割強を占めていた武生工場のシェアが七一年度には五%以下となり、収益面でもほぼ毎期赤字の状態となった。このため同社では七一年一〇月、武生対策委員会を発足させ、武生工場の体質転換の推進を開始した(『信越化学工業社史』)。さきにみた県内製造業の出荷額に占める化学工業の比重が六〇年代後半に後退するのも、この信越化学グループの不振が大きかったのである。
 また、合成繊維生産の後発企業として、さきにふれた呉羽紡績敦賀ナイロン工場があるが、これは六六年四月に東洋紡と合併し、六七年五月には東洋紡のポリエステル生産が開始された。また、七〇年代に入ると合繊原糸メーカーの北陸産地への工場進出があいつぐなか、七二年五月、鯖江市で鐘紡ポリエステル北陸合繊工場が生産を開始した。
 つぎに、県内資本の代表的な化学関連企業として、戦前からの染料・薬品・糊料などの繊維用副資材の取扱商社が発展したものを二つあげておこう。フクビ化学工業と日華化学工業である。
 フクビ化学工業は、戦前からの糊料商社である八木熊商店の八木熊吉を社長として、五三年五月、福井ビニール工業として創立された。五一年三月に設立された福井県青年会議所に集まった八木ら若手経営者グループに対して、県が新規開拓分野として合成樹脂の成形加工を推奨したことから同社は発足した。初期の試行錯誤のなかで生み出されたブラシ・パイプ・レールなどの塩化ビニル樹脂加工製品が、八木らの販売努力により商品化され、同社の経営は軌道にのった。五八年一二月に突如としておこったフラフープ・ブームも増収に貢献した。
 福井ビニールの躍進は、六〇年代はじめにタイル生産に乗りだすところからはじまった。五九年に原料の取引関係のあった三井化学工業、およびその系列商社である日本トレーディング社と資本提携し、六〇年に大阪工場でタイル生産を開始した。また福井市南部の三十八社町に新工場用地を求め、六二年三月より全面操業を行う一方、県下の合成樹脂成形加工の下請工場の育成にもつとめた。同社は多様なタイル製品の開発を行うとともに、クッションフロア・塩ビ床材など住宅建材分野に進出し、おりからの住宅ブームにのって好成績をおさめた。さらに西ドイツのショック社と技術提携して取得した、硬質塩化ビニルをベースに木目柄を印刷するプラグレンの技術は、テレビ、ステレオなどの外板として人気を博し、家電ブームのなかで売上げを伸ばした。同社は七〇年一月にフクビ化学工業と社名変更し、六月にはフクビミカタプラスチック工業を設立、嶺南の三方地区の中高年労働者の採用によるタイル生産に乗りだした(『一歩一歩』)。また、合成樹脂の成形加工分野は、比較的容易に参入できる分野として注目され、六二年一月の酒清織物のサカセ化学工業設立をはじめ、県内でも多数の企業が設立された。なお、合成樹脂加工は八四年まで産業中分類では「その他」に計上されるので注意されたい。
 一方、日華化学工業は、染料販売商社であった江守商店により三九年に設立され、界面活性剤を中心とした生産を開始した。戦後初期には石鹸に重点をおき、五一年の油脂の大暴落で倒産の危機に瀕したが、取引先の長瀬産業、福井銀行などの支援を得て、以後、繊維用界面活性剤を中心とする再建をはかった。直接染料堅牢度増進剤「ネオフィックス」をはじめ、各種の新製品の開発を行い、六〇年代には合繊ブームにのって売上げを伸ばすとともに、洗剤・紙パルプ化学薬品など、界面活性剤技術を応用した多様な新規事業へ進出を開始した("A HIS-OF THE FIRST50 YEARS")。



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