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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    五 内陸型工業の発展
      繊維産業の比重の低下
 他県に類例をみない繊維工業への特化が、福井県の工業生産の大きな特徴であり、またそれゆえに他の第二次産業の育成が叫ばれてきた。そして、一九六〇年代に入ると、ようやく県内の工業は多様化の様相を示すようになった。
 表144は県内の製造業の産業分類別(中分類)製造品出荷額の五年ごとの推移であるが、もう少し詳細に繊維工業(衣服、その他二次製品も含む)の製造品出荷額に占める構成比を追うと、一九五一年(昭和二六)に七八・八%と戦後最高の比率となった後、五三年(五九・九%)から急速に比率を下げ、五九年には四九・七%と五割を切った。六〇年代前半は五割前後を推移したが、六五年(四九・七%)以降ふたたび低下がはじまり、七〇年には四一・四%となった。その後の高インフレをともなうブームでふたたび持ち直すものの、七三年(四四・三%)をピークとして長期的な低落を示すことになる。

表144 産業中分類別製造品出荷額

表144 産業中分類別製造品出荷額
 繊維工業につぐいわゆる「第二産業」としては化学工業があり、五〇、六〇年代を通じてほぼ一〇%台の前半を推移していたが、七〇年代には一〇%を切るようになった。これに対して、六〇年代に著しい伸長を示したのは一般機械・電気機械・精密機械(大部分、眼鏡枠)などの機械工業、および金属工業であった。その背景としては、六〇年代に進展した道路・鉄道網の整備により、繊維を含む各種製造業の内陸型の工場立地が進んだことが指摘できる。五〇年代にはじまった県、市町村の工場誘致は五九、六〇年の好況によりはずみがつき、都市部周辺の幹線道路沿いに工場用地が造成され、あいつぐ県内・県外企業の新鋭工場の進出をみることになった(表145)。ちなみに北栄造知事の総合開発計画の目玉の一つは、のちに中川平太夫知事のもとで福井臨海工業地帯として実現をみる九頭竜川河口地域の重化学工業地帯の形成であったが、むしろ現実にはこうした内陸部の工場立地により福井県の第二次産業の多様化が進んだのである。

表145 企業立地状況(1960〜70年)
表145 企業立地状況(1960〜70年)
 また、敦賀市の東洋紡績敦賀工場・敦賀セメント敦賀工場、小浜市の芝浦製作所小浜工場といった少数の大工場以外にみるべきものがなかった嶺南地方にも、ようやく六〇年代に工場立地が進んだ。
 まず、敦賀市では、敦賀港の港湾改修の進捗とともに輸入木材の入荷の増加が著しくなった。このため木材加工工場の立地が進み、六四年四月には永大産業がラワン材合板工場の操業を開始した。北陸線の複線電化、名神高速道路の開通が間近になったことも有利な条件となり、六一年一二月に呉羽紡の敦賀ナイロン工場の誘致が決定し、六四年六月に完成した。また六八年九月には、フランスのル・ニッケル社、日本鉱業ほか二社の共同出資で日本ニッケル敦賀工場が操業を開始した。このほか既設の東洋紡、敦賀セメントなどでも増設があいついだ。
 若狭地方でも国道二七号の整備にともない工場立地が進んだ。六三、六四年の合繊ニットブームのさいには、嶺北の企業設立が県内企業中心であったのに対し、嶺南では関西メーカーの進出が中心となり、ロンニット(小浜市)、丸井合繊(上中町)、山喜商店(高浜町)、内外布帛(三方町)、西沢縫製(美浜町)などの縫製工場が生産を開始した。また六〇年代後半には、関西企業の電機部品工場、金属加工工場が次々と立地を決定した。
 嶺南地方への工場進出のおもな動機は低賃金労働力の確保にあった。しかし、もともとこの地方は若年労働力の層が薄く、縫製工場立地のさいにも労働力調達の困難が指摘された。また呉羽紡のナイロン工場も第一期建設工場については同社の既設工場からの配転により労働力の充足をはからざるをえなかった(『福井経済』63・10)。
 以下ではこうした繊維以外の製造業の動向について、化学工業および機械工業にしぼってみてみよう。



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