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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    三 深刻化する公害問題
      公害行政の展開
 一九五〇年(昭和二五)の東京都をはじめ、大阪府・福岡県など工業化・都市化が早くから進んだ都府県では、すでに五〇年代に公害防止条例が制定されていたが、福井県では六二年に県人権擁護委員会連合会が公害防止条例制定決議を県議会に提出したものの、採択されなかった。県の公害問題への対応は遅く、六七年、国はのちに「ザル」法と批判される「公害対策基本法」を制定したが、その翌年の県の当初予算における環境対策費は、環境衛生課、県衛生研究所の調査費など少額にすぎず、県の公害行政組織も開発側の一部門として六八年一一月に企画部県民生活課に公害係がおかれたのが最初であった。
 政府よりさまざまな汚染調査の通達をうけ、また福井臨海工業地帯の造成計画の策定が本格化しはじめた六九年四月、公害対策基本法第二九条にもとづき福井県公害対策審議会が設立され、同審議会の答申をうけて六月、「福井県公害防止条例」が制定された。しかし、条例の対象になる大気汚染や水質汚濁については規制基準や地域指定も未定で、騒音規制についても国の「騒音規制法」により九月からスタートする福井市以外は実態調査にも手がつけられず、条例の全面施行は翌年七月とされるなど、いかにも急場しのぎの条例制定であった。
 県が北陸電力との公害防止協定の早期締結を急ぎ、公害行政の整備が遅れるなかで、公害問題をめぐる情勢は急速に変化した。六九年、東京都が制定した公害防止条例は、国の基本法が「産業の健全な発展と調和」した環境保全をはかるという「調和論」を前提としたものであったのに対して、住民の良き環境を享受する権利を認めて企業の最大限の公害防止義務を明記するという、先進的な公害規制の論理を打ち立てるものであった。政府はこれに反対したが、内外の公害反対の世論の盛上りと各国の環境政策の前進のなかで、七〇年一一月第六四臨時国会で公害対策基本法の全面改正を行い、公害対策の目的を生活環境優先とすることを明記し、また自治体が国の規制に上乗せしたきびしい規制を行うことも認めた。あわせて、いわゆる公害一四法を成立させた。
 県はこうした動きのなかで条例の全面改正を迫られたが、行政組織の整備を先行させ、一〇月企画部県民生活局に公害課を設置し、県衛生研究所内に公害センターを設立した。また七一年二月には国と県・市町村の公害対策の調整と推進をはかるために福井県公害対策本部が発足した。県条例の改正は、七月の県議会において、零細企業に優遇措置をあたえること、公害防止設備資金の保証をはかることを付帯条件として可決された。これをうけて一一月には、福井県公害審査会、福井県水質審議会が設置された。
写真96 環境大気調査(三里浜)

写真96 環境大気調査(三里浜)

 以後、各種汚染物質の排出規制や環境基準の設定・強化、監視測定体制の整備がはかられるとともに、行政組織も七二年に公害課を公害対策課と公害規制課に分けるとともに、福井市原目町に公害センターを移転し職員の増員を行った。さらに七三年四月、企画部県民生活局は生活環境部に改組、昇格となった(『朝日新聞』62・10・2、68・3・3、69・8・26、71・7・8、福井県『公害白書』七二・七三年度版)。
 なお、公害防止条例では事業者と自治体との公害防止協定の締結をうたっている。県下では七〇年二月に敦賀市と北陸砕石工業との間で協定書が取り交わされたのが最初であった(『福井新聞』70・5・20)が、七三年七月一日現在、七市一三町村において四三の協定の締結をみた。ただし、県の『公害白書』によれば、その内容は、法律等の規制基準をそのまま確認したものや抽象的な規定にとどめるものが多い、とされていた。
 一方、七二年になってようやく敦賀市、勝山市をはじめとして、環境保全条例を制定する自治体が現われるようになり、公害対策審議会、環境保全対策審議会の設置も行われた。また公害企業の誘致に対する批判がしだいに強まるなかで、市町村財政の困難、政府の地方工場立地政策の拡充を背景に七〇年から工場誘致条例の廃止を行う自治体があいつぎ、七二年度末までに条例を廃止した自治体は一二自治体にのぼった(『福井経済』73・8)。



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