一九五〇年代なかばからの高度経済成長は、教育機会のめざましい量的な発展をもたらした。そのもっとも顕著な変化は、義務教育終了後の高校教育を同世代の九割をこえる者がうけるほどに一般化したことであった。さらに大学以降の高等教育や、就学前の幼児教育にむかっても、教育機会は大きく拡大した。また、「学校教育法」で規定されながら、その設置義務と就学義務の発効が延期されていた養護学校の義務制は、一九七九年度(昭和五四)から実施され、美方養護学校をはじめとして県立七校、国立一校が整備された。
反面、こうした教育機会の急激な拡大は、学歴競争への参加者をも拡大した。すなわち戦前の中・高等教育の学校体系が性別や普通教育、実業教育によって袋小路型に分化していたのに対し、戦後の教育制度ははるかに開かれた制度であったために、競争の規模も格段に拡大することになった。また、産業構造の変化に対応して経済的地位の配分に、学歴がより直接にかかわることになったため、ますます多くの子どもたちを長期の競争に巻き込み、学校間の序列化をもたらすことになった。
ここでは、まず高校教育の量的な拡大とその過程で現われた諸問題をみていこう。
戦後改革による新制中学校・高校の設置によって、中等教育の機会は格段に拡張されたが、高校への進学率が顕著な上昇をみせるのは、五〇年代後半からであった。
福井県の高校進学率は、五〇年代なかばまで四〇%台(男女平均)で推移し、五六年度の全国五一・三%に対して、福井県は四三・一%と、八・二ポイントも下回っていた。しかし、この後進学率は、全国的な動向と同様に、五八年度から上昇に転じ、六九年度には全国平均を上回る八〇・二%となった。さらに四年後の七三年度には九一・八%と九割をこえ、高校教育はきわめて一般的なものとなったのである(図56)。 |