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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    三 深刻化する公害問題
      公害問題の登場
 戦後日本の重化学工業化、都市への企業・人口の集中、大量高速輸送体系の展開は、高度経済成長を実現する条件となったが、同時にそれは、各種汚染物質の排出、騒音、振動など、人間の健康や快適な生活環境を脅かすさまざまな要因を顧慮しない、いわば野放しの経済成長を招いた。一九六〇年代の日本は世界一の公害先進国と呼ばれるようになったのである。行政や企業の公害に対する関心は薄く、水俣病やイタイイタイ病などのいわゆる四大公害事件が世間の耳目に入りはじめた六〇年代なかばから、ようやく重い腰を上げることになったが、この間、全国的に環境汚染・環境破壊はさらに深刻さを増していった。
 福井県の公害問題についてさかのぼると、戦前は、一九〇〇年(明治三三)前後に問題となった面谷銅山(大野郡上穴馬村)の鉱毒問題、一九三五年(昭和一〇)に竣工した東洋紡績敦賀工場の汚染排水問題、三七年に操業を開始した敦賀セメントの粉じん(煙害)問題などがあり、企業と被害者住民との間で紛争が生じている(通5、『敦賀市史』下)。戦後になると、とりわけ各自治体で工場誘致に関する条例が制定され、積極的な工場の新増設の奨励がはじまった五〇年代から、工場の汚染物質排出による被害があいつぐようになった。敦賀市では、東洋紡績敦賀工場の人絹生産の再開後、漁獲が急減したため漁業者による工場廃水に対する異議が持ち上がった。しかし、戦前の同工場の誘致のさいの覚書で排水に関する苦情は市(当時敦賀町)が処理することになっていたため、会社ではなく市が当事者となり、五一年一二月、漁業者との間に排水浄化措置の約束と補償(一時金一二〇万円、年間三〇万円を市が支払)を内容とする契約が取り交わされた。また五三年に操業を再開した不二越鉱業敦賀工場の硫酸生産にともなう亜硫酸ガスによる住民・農作物への被害、濃硫酸を含む排水による河川の汚染が発生し、被害農漁民との間で装置の改善、被害賠償をめぐる紛争が長期化した(『敦賀市史』下)。
 六〇年代初頭には、製紙工場の新増設にともなう工場廃液による農作物の被害が武生市、今立郡今立町などで発生した(『朝日新聞』62・1・20、66・9・20、67・11・24)。さらに西野製紙金津工場の廃液による竹田川の水質汚染問題は、つぎにみる「黒い水問題」として長期にわたり紛糾し、公害問題に対する幅広い県民の関心を集めることとなった。



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