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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    三 深刻化する公害問題
      黒い水問題
 西野製紙は一九六一年(昭和三六)五月、県・坂井郡金津町の誘致により同町の北陸パルプ工業を吸収合併し、同年一一月ダンボール用中芯原紙の生産を開始した。その直後から工場廃液の放出による竹田川の汚染がひどくなり、六二年四月には下流の坂井郡芦原町・三国町の農民らが汚水放出反対同盟を結成し、工場に対し濾過施設の設置と稲作被害補償を要求、五月からは県への陳情を開始した。県では八月に竹田川排水対策委員会を設置してあっせんをはかり、六三年三月には工場から直径三〇センチメートルの塩化ビニル管を埋設して芦原町波松地区で海に直接放流することが決定した。これには放出予定地周辺の波松・北潟などの漁民の反対があり、結局六月二〇日、知事の立会いのもと、三国町と工場との間で覚書が手交され、放出口については三国町があっせんすることで年末までに排水管を完成させること、工場側は濾過装置を設置すること、工場は三国町を通じて関係漁業者への補償金と見舞金、排水管敷設にともなう地元に対する協力費を支払うこと(八月一九日の協定書締結により、一時金四五〇万円、漁業補償として年間一二〇万円の支払)が取り決められた(『朝日新聞』62・4・3、8・11、63・2・26、6・21、福井県『公害白書』七二年度版)。
 三国町は当初三里浜海岸への放出を提案したが坂井郡川西町、福井市国見、丹生郡越廼村などの漁民の反対により、工場からの排水管敷設が三国町竹松で中断したまま越年することになった。三月には九頭竜川河口左岸の三国町新保での放出が決定したが、苗代期をひかえて芦原町では既設中断部分での放水の実施を工場側に求め、他方三国町はこれに反対するとともに工場側が放出口の決定の遅れを理由に意識的に覚書の履行を遅らせているとして福井地方裁判所に約束不履行にともなう仮処分申請を行い、さらに西野製紙を正式に告訴するなど、事態は紛糾した。結局六四年五月一一日、福井地裁の調停で和解が成立、工場側が一一月末までに原液焼却処理施設を設置すること、七月末までに排水管の敷設を完成することで解決をみることとなった(『朝日新聞』63・9・11、『福井新聞』64・3・1、『読売新聞』64・4・4、8、福井県『公害白書』七二年度版)。
 しかし問題はこれで終わりではなかった。西野製紙は六八年一〇月、福井化学工業と社名変更したが、この間金津工場の増設が行われ、排水管により放出される廃液は一日九〇〇〇トン近くになっていた。同年には漁業補償の改訂により年間三〇〇万円の補償が漁民に支払われることになったが、廃液処理施設の改善が不十分であったため、七〇年には三里浜から東尋坊にかけての海岸線約九キロメートル、沖合約二キロメートルがヘドロ化の様相を示したのである。
 同年一一月には、三国町の漁民一九人が県公害審査委員会に同委員会初の紛争処理申請を行い、福井化学工業に対して一人あたり三五〇万円の補償を請求した(三国町が補償金による解決は得策ではないとして仲介を拒否したこともあり、のちに申請事項が変更され「第一義的には設備改善を要求」するものとなった)。また同月には、三国町内の区長会、商工会、漁協など一八団体六〇〇〇人が参加して「三国町住民公害反対同盟」が結成され、後述の北電福井火力の公害反対とともに福井化学工業の汚水追放を訴えた。こうした反対運動の盛上りを背景として、通産省や県からの設備改善指導をうけて、福井化学工業では七一年一〇月、一六漁業関係団体に対して漁業補償金三〇〇万円に迷惑料三〇〇万円を上乗せして国・県の定めた水質基準に達するまで支払うこと、またスウェーデンから最先端の燃焼処理施設を購入することを決定した。これは七三年二月に完成し、これにより放出口付近で三〇〇〇ppmから三三〇〇ppmであった廃液の濃度が従来の四分の一に減少したといわれた(『読売新聞』70・5・29、73・2・18、7・13、『福井新聞』70・6・24、『朝日新聞』70・10・8、12・18、71・10・27、『中日新聞』70・10・22、『サンケイ新聞』71・9・20、福井県『公害白書』七二年度版)。



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