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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    二 三八豪雪と四〇・九風水害
      真名川防災ダムと西谷村
 奥越集中豪雨によって壊滅的被害をうけた西谷村の人びとは、被災直後に徒歩もしくは自衛隊のヘリコプターによる救出をうけ、大野市下据に建設された仮設住宅での生活を強いられていた。わずかな農地と製炭業によって生計を立てていた村民にとって、もはや復旧の予測もつかないほどの惨状は全戸離村を決意させるに十分であったが、「西谷ニュータウン」と新耕地建設を中心とする村の再建計画が作成されると、村民の多くは復興・再建に乗りだした。
 ところが翌一九六六年(昭和四一)になると、一転して真名川防災ダム建設計画が建設省よりもちあがり、下若生子地区より上流中島地区までが水没する可能性がでてきた。同年四月二三日、建設省近畿地方建設局より福井県に提示された計画では、上笹又・中島と県営中島発電所は水没を免れることが明らかとなったが、西谷村議会および区長会からは、このさい全村水没させ集団離村したほうがよいとの強い意見が出された(『サンケイ新聞』66・5・18)。再建派の中心となっていた山本満西谷村長も、村民の意向をくみ「全村水没させよ」との要望書を県に提出するにいたり、建設省も二七日真名川ダム建設を決定した(『福井新聞』66・5・20、28)。
 同村は、七月一九日に水没対策協議会を設置し、水没補償に関して、(1)補償評価の基準日を被災前日の六五年九月一三日とする、(2)奥地に残存する巣原、温見、黒当戸は「準水没」扱いとする、などを含む「西谷方式」と呼ばれる原則を打ち出して近畿地建と折衝を重ねた(『サンケイ新聞』66・9・16)。しかし、建設省側は災害で流出した家屋など現存しない地上物件についての補償はむずかしいとの立場をとり、補償問題は難航した。六八年ようやく補償問題は解決したが、災害時の流出家屋は水没補償の対象にならず、見舞金として一億三九八〇万円を県が負担した。七〇年六月三〇日をもって西谷村は廃せられ、翌七月一日に大野市へ編入された。また移住先をみると、県内が一八九世帯でそのうちの八割以上が大野市に移住し、県外移住は二六世帯であった(『西谷村史』上)。
写真95 真名川ダム

写真95 真名川ダム

 真名川ダムは七二年に着工され、総事業費一六〇億円をかけて七八年に完成した。堤高一二七・五メートル総貯水容量五八八〇万六〇〇〇立方メートルの重力式コンクリートダムである。ダム湖は麻那姫湖と命名され、湖をめぐる国道一五七号沿いには水没集落ごとに「ふるさとの碑」が建てられている。



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